「聴衆ゼロの講演会」あとがきより | メメントCの世界

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「聴衆ゼロの講演会」あとがきより

 

(パンフには演出家としてインタビューがあったのですが、作家としては書いてないので、これを自家版印刷脚本の後に書きました)

 

 中井正一(なかいまさかず)を知っている人は、今、どれくらいいるのだろうか。

 1900年、広島県竹原生まれで、父親は北前船の回漕業をし、母・千代は明治時代にはまだ珍しい帝王切開で、一人息子の正一を出産した。その中井一家の物語を記録したのは山代巴だ。

 

またここで、山代巴とは?という疑問が湧くだろうが、現代ではアニメとなった漫画「この世界の片隅に」で副次的に注目を浴びて、復刊された岩波新書『この世界の片隅で』(共著)を綴った山代巴である、と言う方が伝わるのだろう。

 

 私自身、山代巴は読んでいたが、劇団民芸の制作者、上本氏から脚本を依頼されるまでは、中井正一を知らなかった。

 

 明治三十三年生まれの中井は、大正デモクラシーの時代に京都三高、京都帝大の学生生活を謳歌した。彼はまた京都学派と呼ばれる哲学の一派に属していて、当時の京大哲学科は百花繚乱。西田幾多郎教授を頂点に、朝永三十郎、波多野精一、深田康算、田辺元、九鬼周三、和辻哲郎などなど、錚々たる哲学者が綺羅星のように集まっていた。だから彼自身は、親友でもあった三木清、戸坂潤と比べて目立たない人なのかもしれない。彼のユニークな「委員会の論理」に代表される集団のコミュニケーション論、技術的側面からの映画論、演劇論、東洋美術に至るまでの縦横無尽で難解な筆は、一体この人の頭の中には何人住んでいるのだろうか?という疑問を呈してくれる。そしてまた彼は、映画や雑誌の編集やプロデュースにも携わり、様々な制作をものにしている。彼の方向を変えた大きな事件の一つに、京都帝大滝川事件がある。ちょうど、ドイツでナチスが焚書の祭典に興じていたころ、中井らのグループは時計台の下で反ファシズムを叫んでいた。    

 

 1930年代、京大滝川事件の敗北を契機に、中井を中心に、新村猛、真下信一、武谷三男、久野修らによる反戦・反ファシズム運動を展開したグループは、フランスの反ファシズム運動の流れ汲んだ、意識高過ぎる系の研究紀要的雑誌『美・批評』『世界文化』を出版し続けた。それだけでなく、労働運動家で、雑誌プロデューサーでもある下賀茂撮影所の大部屋俳優・斎藤雷太郎の胸をかり、元同志社法学部教授で弁護士の能勢克男らと週刊新聞『土曜日』を出版した。ちなみに、能勢は、戸坂潤が最初に検挙されたときの担当弁護士だった。

 

 平易な言葉で反戦を伝える誌面には、難解な哲学用語はどこにもない。そして『土曜日』は、一般大衆の支持を受け、売れに売れて黒字にまでなった。そこに中井の真骨頂があるように思う。しかしそれは京都の文化的反戦の最後の砦となった。1928年の三・一五の大検挙以降、まさに「暗い谷間の時代」には、反戦平和を口にすることはインポッシブルな状況であり、1937年には世界文化、土曜日関係者は逮捕され、「世界文化」グループは壊滅してしまったのだ。

 

 中井は、逮捕から一年半の拘留、その後の七年ほどの自宅軟禁をくらう。その間に、資治通鑑を読みふけったというが、長女の筆によれば、琵琶湖で「バカヤロー」と叫んでいたそうだ。この間に、みち夫人の心労は溜まり、耳も悪くなっていった。

 

 執行猶予が解けると、1945年の六月に郷里の広島県尾道に疎開し、尾道市立図書館館長となった。もはや齢四十五の中井であったが、後から振り返ればそれからが彼の本領発揮だったともいえる。

 中井の親友、三木清や戸坂潤らは、敗戦前後にそれぞれ、豊玉刑務所、長野刑務所で獄死していた。「なぜ、誰も助けなかったのか?」

 その無念を晴らすように、中井は戦後すぐに、尾道市立図書館館長として、文化活動を開始する。私は演劇台本として、戦前の三木清との交流、世界文化の人々のドラマを実際に書いてはみたが、中井の戦前の行動は筋書きがあちこちへと展開し、舞台上演時間が五時間になってしまうため、上演台本は戦後にフォーカスをあてることとなった。長すぎる舞台はやはり嫌われる。

 

 敗戦直後からの、民主主義を求める多くの人々、とりわけ若者らが文化運動に沸き上がった時代、中井正一は分かりにくい哲学用語を引っ込めて、大衆に伝わる「ことば」を模索した。面白いエピソードがたくさんある。実際に、彼の図書館でのカント講座は、ちんぷんかんぷんで、そのうちに聴衆が母親一人になってしまったという。そこから、何度も自分を振り返り、お題目としての哲学ではなく、「弁証法を生きる」とはどういうことか?を実践の中で鍛えていった。過ちを踏みしめ、日に日に新しくなっていくことで、本当の民主主義が日本に生まれると、彼は言う。そして終戦の翌年には、尾道、三原、竹原の若者を集めてサークルイベントを企画し、近隣の講演会を満員にするまでの活動家になっていく。しかし本当に面白いのは、彼が各地で農民や労働者と車座になって語った「口演」だ。

 それを記録したのが、治安維持法で懲役となり、敗戦間近の八月に出獄して郷里に戻った山代なのだ。径書房『私が学んだこと』『千代の青春』にある中井の地方巡業講演会の様子は、静かな文化人ではない。あれだけのアジテーションを、農村でしたのなら、どれほどの反駁がかえってくるのか?

 中井の十八番は三つの根性だ。「民主主義を手に入れるためには、全ての人が心の中の封建主義を捨て去らねばならない」と訴え、それをどうやって克服するのかを、広島県各地を自分の足で語り歩いた膂力はすごい。封建主義の残滓である、「あきらめ根性」を奈良時代の庶民の暮らしに、「抜け駆け根性」を鎌倉武士の梶原景季と佐々木高綱の先陣争いに、「見てくれ根性」を竹やり訓練でと、具体的に解説し、天皇制ファシズムに染まって思考停止になった人々の頭を再起動させていった。

 

 1947年には広島県知事選にも出て、岩盤保守の広島で二十九万票を獲得する。また、保守と対立するだけでなく、その県知事の協力を得て、大政翼賛につとめた産業報国会の残った基金で、広島県労働文化協会を立ち上げた。清濁併せ飲み、有効活用し、芸術家も政治を知らねばならない。


「分断を生む論破ではなく、連帯を生む議論を」と訴えた中井の言葉は、私たちに忍び寄るファシズムに有効だ。現代の複雑な社会、経済状況においても、中井のこの三つの単純な論法は、原因と結果を私たちに明らかにしてくれる。

 

 戦後の文化活動については、諸論文で触れられているが、中井正一の労働運動への関与、県の労働委員会理事長に選出されたことから始まる、広島、福山、山口を走り回っての、調停や労働団体との協同は、ほとんど誰も書いていない。そこには、文化運動で見せるような姿とはまた違う、中井正一の北前船の子孫というカンが働く、まさに切った張ったの世界があったのではなかろうか。

 筆者は、大逆事件の上演活動で、地方の団体、宗教、左翼、地方自治体、解放同盟系のひと癖もふた癖もある人々と談判をして歩いたことがあるが、そういう場で発揮されるのは、文人としての静かな思想ではなく、現実の生活の中で試されつづける、勝負運や胆力だ。

 
 不思議な縁で、新潟のコーラス活動をする老人が、私に三原車輛工場の話をしてくれた。三菱の車輛工場は、戦後に労働争議が頻発し、中井が調停委員として、談判に行っている。その戦後に三原の三菱車輛工場を訪れたことがある老人は、その縦割り力、戦前からの統率力、ヒエラルキーの凄まじさに驚き感嘆していた。それゆえに、単なる「先生」が、労働の調停に来たとして、その役割を果たせるとは思えないのだ。事実、相当に労働者側の勝利ともいえる調停を、中井正一は、天下の三菱重工から勝ち取っている。書かれていない中井正一の姿は、その後の労働運動にかかわった、中井正一の弟子たちの中にあるのではないだろうか。折しも、終演間近に、広島の土屋時子さんから、広島県の文化運動と労働運動にかかわった人々の資料がもたらされた。今後、更に読み解いて行きたい。

 

 中井が尾道図書館館長から、国立国会図書館副館長となったのは1948年の四月。中井に声をかけたのは社会思想家の羽仁五郎で、彼もまた、獄死した三木や戸坂らと志を同じくしていた。戦後の参院選挙で羽仁は当選し、参議院図書館運営委員となり、立法府である国会に直属する国立国会図書館創立にまい進した。国会図書館の受付のレリーフ「真理は我らを自由にする」は、ドイツ留学の際に、フライブルク大学で目にした聖書のヨハネの言葉がもとで、国立国会図書館法の前文にも取り入れられた。三木清とともに、ハイデルベルクで学んだ羽仁は、ナチス前夜のドイツを経験した多くの日本人留学生の一人だった。彼のするどく徹底した吉田首相への国会質問は誰でもネットで検索することができる。

 

 中井の副館長就任までには、右派系から、過去の治安維持法での逮捕歴からの妨害も多く、赤坂離宮仮庁舎の周辺には、「中井は辞めろ」というビラが貼られていた。図書館組織の中の一員となって、システムを動かしていく立場となった中井は、自らの「委員会の論理」を実践していく。そして不条理な政治の中でも、歴史を見据え、同僚や部下を鼓舞したという。その笑い声はすさまじく大きく、岩波書店のビルの近くで、タクシーがその声を頼りに迎えに行ったという逸話もある。国会図書館の納本制度において、中井の民間出版社や映画界との結びつきと信頼がなかったら、スムーズに納本も進まなかっただろうということからも、中井が言葉だけの哲学者ではなく、構想力に富み、プロデューサーとして優れていたことがよくわかる。

 やがて中井は図書館法を成立させ、五十二歳で夭逝する。敗戦から走り続け、たった七年間で彼は多くを実践した。彼が図書館法成立について書いた文章の中に、「一隅を照らす」がある。“炎は燃えているから美しく、それが燃え広がっていくこと、絶えず運動し不断の努力で続いていくこと“その営み、それが対話でありコミュニケーションだということなのだろう。

 

 さて、現代に戻ってみるに、今が滝川事件当時の日本なのか?ナチス前夜のドイツなのか?現代の諸問題を解決する特効薬はどこにもない。しかし、SNSやや為政者のワンフレーズ的思考の単純化が、思考の努力を人々から奪い続けていて、文化の闘いとは、そこを耕すことからしか何も始まらない。それには多くの人が気づいている。だが、山肌に降り注ぐ一滴一滴になるということが、タイパ、コスパにとらわれている限り、難しい。一滴一滴でいいじゃないか。声を挙げよう。

 

 中井や三木が言うとおり、「実践の伴わない真理は真理ではない」。そして、羽仁五郎が掲げた「真理が我らを自由にする」は、デマゴーグはびこる現代には、セントエルモの炎だろう。

スマホを操ることは、どうも実践とは遠い様にも思う。だからこそ、中井の「仲間を作る議論こそが民主主義である」という言葉はとても重い。対話を始めるしかないだろう。

 劇団民藝の上演で、中井の言葉に、素晴らしい俳優が血肉を与えてくれた。そうやってまた、燎原の炎がまた燃え広がることを願っている。

                                                                                  嶽本あゆ美