1930年と1937年 | メメントCの世界

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1930年と1937年

 

 

このところ、1930年から1937年の間の日本とドイツの思想について、必死で本を読んでおります。

私の勉強の仕方は、当たりを付けた人物の周辺を徹底的に洗うのと、その周辺で立場が違う人をまた洗います。

洗います、なんて、刑事か警察みたいですが、同じ年代の人の書いたものを読んでいると、同じ事件を、川の両側から見るような

景色を見る事ができたりします。中井正一と、山代巴、そして三木清と、戸坂潤と、それから久野収です。

 山代巴は、川崎の工場地帯、ちょうど私の住んでいる鷺沼からすぐ近くの溝の口から、JR南武線にのって川崎方向に行けば、

本に出てくる山代巴が住んでいた工場街の広がる川崎の町へと行くことができます。

 今でも工場地帯で港湾に近づけば近づくほど、そこでの産業の厳しさ、暮しなどにふきつける風のすさびも感じます。

 

 1937年12月の南京戦については、これまでも「安全区/Nanjing」で書きましたが、山代巴がその前後の国内の、馬鹿騒ぎの様子を、克明に小説に書いています。土手で新聞を朝鮮の少女に読み聞かせながら。朝鮮の少女は、ヨッチャン と呼ばれる15歳の少女で、電線工場を運営しています。そこが面白過ぎるのですが、10歳くらいから、親戚筋の役に立たない女性の替わりに、その工場を切盛りしている姿は、まるでジブリのアニメの中に出てくる賢い女子のようです。もちろん、その一家は、信じがたいような過酷な運命を生きているのですが・・・・・

 

1937年12月

新聞『~喜び湧く11日朝の三宅坂 陸相官邸ではまず、玄関子が未明から祝電に夢を破られた。各地からの祝電が殺到。中には、斉斉哈爾から既に南京陥落旗行列を済ましたというものや、大谷光瑞氏も7日前から祝電をうってよこした。菰かぶりが続々と陸軍省へ運び込まれ、正門前は祝い客の自動車が氾濫という事変以来の祝賀風景』

『南京城壁に日章旗翻る。潮の如く場内へ殺到、凄絶、暗夜の大市街戦。一寸刻み、血の肉薄』

 浅草仲見世のたたき売りは

『南京は陥ちてもさあどうだ、このバナナは誰かの手に落ちねーか』

 

それに対してのヨッチャンの反応です。 

「どうしてこんなに騒げるのかなー、日本人は・・・日本人がのぼせている時はこわいよ。何をするか分からないからって、うちの大人たち、みんなそう言っているもの」

怪訝に思う日本人の光子には思いつかない様な予想をします。

「戦争を喜ばない者を探し出して、警察へほうりこんで、賛成するまで出してくれないような、そんなこと」

 

その後に起きた、大検挙は主義などに関わらず、社会活動をする人々も一網打尽になりました。

 

「京都では、消費組合へ関係を持った程度の左翼的な学者も大勢検挙されているそうですよ。この頃の検挙は人民戦線をつぶすのが目的だから、共産党に関係なくても、戦争反対の色がちょっとでもある本は、みんな取り調べの対象にされるそうですからね。」

 

 

ドイツでは、ナチスが政権を握り、社会を掌握していきます。

哲学がドイツでも日本でも変質していきます。あーおそろしい。でも、今のツイッターとかって、当時と似てます。余計におそろしい。