2023年の墓参と神仏の居ない世界
久しぶりに、大逆事件の追悼集会に参加しました。
コロナ以降、命日には個人で御参りしていたので、大逆事件をあきらかにする会の皆さんに会ったのは久しぶりでした。
昨年は、少数だったとのことですが、今年は30人位の方が参加されていて、青空の下、管野須賀子のお墓の周りが賑やかになっていました。
会報を受け取ったりあちこちの様子も伺えましたが、コロナで集まれないとか、一番は高齢化の問題ですね。
私も、本当に年取りました。最初に行ったのは、45歳位の頃ですから。
2013年でした。太平洋食堂初演の年です。
2009年から一人でひたすら書いていたので、早野透さんに原稿を読んでもらうまで、誰かに頼ろうとか考えてみたりもしなかったのでした。でも、沢山の方に教えて頂いたので、上演が出来て、2020年の最終上演は映像になりました。
3月末までは、五か国語の配信も続きますので、まだ見てない方はみてくださいね。
少し、前のブログにも書きましたが、椿組の女坑夫の話を書いた時から、あ!と思ったことがありました。
それは髙木顕明についてです。
高木が新宮時代に住職になる前、和歌山の松沢炭鉱で布教をしたことが年譜にあるのですが、その時に彼が何を話したのがずっと気になっていました。他の布教師の話は聞くものが居なかったが、顕明の説法は炭坑労働者に喜ばれたと書かれているものがあったのです。炭鉱へ、なぜ布教に?
当時(明治の30年代)和歌山の百里四方には、浄土真宗の寺は無かったそうですから、顕明としては、
南無阿弥陀仏を広めたかったのでしょう。熊野三山といえば、草木一本一本に、真言陀羅尼が沁み込んだ地域です。
山岳仏教の密教修験者のテリトリーですから浄土真宗の顕明には、「異界」だったのでしょう。
と言っても分かり難いですよね。私も仏教ってみんな一緒だって思ってたんで、大逆事件の前は。
でも、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏と南無大師金剛遍照は、それぞれに拝んでいるもの、ディスティニーが違うのでした。
このブログの2012年に最初の新宮訪問のことが書いてあると思います。
私が高木顕明が布教に通ったという松沢炭鉱に行ったのは、2013年の新宮訪問でした。
那智勝浦の中田さんの車で、熊野川をさかのぼりながら、成石兄弟の墓のある請川を目指していました。
その丁度中間あたりにある、廃坑となった松沢炭鉱は、昔はかなりの賑わいで町のようだったそうですが、
今では、坑口が見えるものの荒れ果てた場所でした。
その入り口に、大きな石があり、そこに卒塔婆小町の様におばあさんが座っていたんです。
それを、熊野新聞の記者さんが写真にとってくれたのですが・・・・
おばあさんが、そこでわしも働いていた、と語りだしたのでびっくりしましたが、時間がないので坑口を除いて私はふーん、ここで布教するなんて大変だなーーー!!で終わってしまったのでした。
何ていう馬鹿な私。
今は思いますよ。鉱山労働者が求めた髙木はどんな話をそこでしたのだろう??
逮捕の前にも山奥へ布教に行っていたそうです。高木は大石らと活動をするようになり、
またご門徒の中の被差別の方を擁護するので、他の市民からよく思われず、葬式にも呼ばれんようになっていたそうです。
それで、食えないのに門徒の布施で食うのをよしとしなかったので、自ら按摩を習おうとしたのか、習って稼いだのかは、
はっきりしませんが、弱者に寄り添えば寄り添えば、攻撃をうけたのです。
そう、まるで、Colaboの様に排斥にあってしまうのです。
そんな中で高木は鉱山布教への意欲を燃やします。南無阿弥陀仏に帰らねばと。
そうやって山奥へと通ったのです。自分のお経や説法を喜んで聞いてくれる人々の所へ。
森崎和江の「まっくら」や「奈落の神々」、上野英信の炭鉱ルポルタージュにも書かれたように、炭鉱労働従事者は、幕藩時代から下罪人と呼ばれました。
この写真は直方石炭記念館のものです。
〽 汽車は炭ひく 雪隠虫は尾を引く 川筋下罪人 スラを曳く
下罪人って何?と思うような言い方ですが、げざいにん、げだいにん、と九州、山口あたりではそういう言い方をしたそうです。
なんとひどい言い方でしょう。その差別はずっと続いたということでした。唐津下罪人と言われる地域もありました。
この川筋というのは、川筋気質という言われ方もあり、遠賀川筋にある炭坑労働者の気質を言ったものです。
納屋労働は、納屋頭が人をあつめて鉱山労働に派遣します。納屋はその後、組になりその頭領は労働者を集め差配する
権力も持ちます。炭鉱が閉山したあとも人々が土方や土木工事などをする際にも組というのがずっと元締めとなっていったのです。
さて、明治の炭鉱は明日にも死ぬかもしれない労働です。そこで働く人にとって何が信じられたのか?
実際、森崎和江の聞き書きには、日蓮宗やまじないは出てくるのですが、南無阿弥陀仏は出てきません。定住しなかたからなのか?講組織に加入できなかったからなのか。それで、出た答えは、やはり下罪人と蔑まれた人の心に寄り添えた高木顕明の言葉は、誰の説教よりも、そういう人々に届く言葉だったのでは、ということでした。
女坑夫の言葉で、神様の目が届くのは地上だけで地下は及ばないのだ、という話がとても印象に残っています。
深夜未明に一番方が入坑し、その上がりに全員が揃っているのかどうか、命があるかどうか、それは誰にも分からないのです。
神も仏も力を及ぼしがたい坑道の中で、「気が狂ったように」働いた坑夫達。定住者ではなく、いつでもケツわりして他の炭坑へ逃げる人びと。それは、講といって組織的な教会を運営する農民とは全く違う感覚と、生活様式を有しているのでした。
ですから、旦那寺を持っていた人はまれだったのでしょうね。
高木顕明が日露戦争後に町内で排斥された状況は、今のウクライナで非戦を叫ぶようなものでしょう。
そして、社会をよくしようとして、社会主義に惑わされて?大石誠之助や沖野岩三郎らと色々やってみたけれど、やはりしっくりこない中、被差別者や炭坑労働者へ下へ下へと目線を降ろし、根っこを探し、南無阿弥陀仏を説くことで、自分を再確認したのかもしれません。
森崎さんが炭坑で働いた人々から話を聞くことで自分の根っこを再生した状況と、何か似ているようにも感じました。
2023年の墓前祭は、そういう不思議な納得を私にくれたのでした。