祭りのあと
門真国際映画祭が終わりました。
久しぶりにメメントの大内、明樹由佳さん、泉監督らと移動して、門真市に3日ステイしました。
大阪というのは、四季時代に随分と長く住んでいたので、土地勘はありますが、門真には行ったことがありませんでした。
京都行くならおけいはん、の京阪にもあまり乗らないから。
京橋のビル街にあったMBSホールには2年弱、通っていましたので、淀屋橋で京阪に乗り換えて門真という道すじは懐かしかったです。
毎年、人形劇団クラルテさんに劇作講座などでお邪魔していて、定期的に大阪には行くのですが、コロナに突入して、昨年、一回、今年も一回の講座になりました。
それで、今回、バテバテながら門真に行けて、何だかこの12年間を振り返るような旅になりました。
それで、きっとなんで私が舞台映像を映画祭に出品したのか、謎だと思っている人も多いので、人生の選択肢は実はとても溢れているのだ、
ということでこんなことを書いてみます。
行ったけどまさかこの様な最多受賞の結果を持ち返ってこられるとは、全く思っていなかったです。
久々に、制作の役割のない現場に居られて、作品に浸れたことがとても楽しかったです。
しかしながら、映画っていうのも、作るのが本当に大変だなあと、各作品を観ながら思いました。
書かれたシナリオが映像になる確率は、舞台よりも低い低い映画の世界。そして、予算も桁違い。
それでも、表現をやめたくない人、したい人であふれていた会場は、ノミネートされたフィルムメーカーでごった返し、
エネルギーに溢れていました。
ああ、私もその一人なのだ、と思うのがとても誇らしかったです。
こういう業界にいると、どうしても、ガチンコで審査される機会はどんどん減ります。
名前が知られたり作品が受賞したりするようになると、必ずレッテルが張られます。
ですので、3時間という長大な上演映像を審査して、評価下さった映画祭の審査員に心から感謝します。
私は演劇界にそれほど知り合いはいません。それは株式会社四季や、音楽業界のバイトでずっと過ごしたからでしょう。
先週、四季で大変お世話になった音響の大先輩が、肺がんでなくなりました。
すさまじい大規模ミュージカルの仕込に人生をかけていた先輩ですので、
表に出ることは皆無。しかし、難しいハイテクな音響ブースや、凄まじい重量のスピーカーのスタッキング、調整を40年以上も担ってきた方です。そういう下から基礎を支えてくれる人がいるから、ライオンキングや美女と野獣とかアナ雪とか、そういう数千回のロングランが出来るのです。でもそういう人が名前が挙がることは皆無なのが、この世界です。
四季時代には、会議で私の言うことが分からないので、ある先輩が必ず通訳してくれました。
当時、平尾という名前の私は仕事場でも宇宙人で、やたらと喧嘩ばかりしていました。
「平尾の言ってることはこういうことなんだよ」と言い直してくれる親切な先輩にも、恵まれていたのです。
正しい仕事をする!ということは、過酷です。
音響機器の測定から始まる「正しい仕事」は、1キロヘルツ、100ヘルツ、10キロヘルツで始まります。
オシレーターの針がぴったりなるように、何度も怒られては測りました。今では考えられないアナログ世界でした。
正しい音と、正義は似ています。まあ、こんな感じでいいんじゃないの?ていうのと、完璧な調整は果てしなく違うものなんです。
でも、計測機よりも、人間の耳の方がはるかによいのですがね。
完璧なものなんてないのに、本当にみんな、正しい仕事を目指して不眠不休で24時間働いていました。昭和の悪しき伝統ですね。
キャリアの13年ほどを、そういう音響業界で先端の技術に触れながら過ごしたことで、今の私は映像配信などというものに、手を出して
それを形にすることができました。これもビギナーズラックですが、出会いがそれを可能にしてくれました。
何とここに、30年近く前の私と明樹由佳さんの写真があります。(笑)
場所はウェストサイドストーリー上演の日生劇場の楽屋。
彼女は、ジェット団の女子。私は音響オペレーターでオーケストラのミキシングをしていました。
恐ろしいほどの縁です。
その後に、明樹さんは四季をやめて、キャラメルボックスの看板女優になり、2012年に私と再会しました。
撮影監督の株式会社アレイズの泉邦昭さんと出会ったのは、浅草の西徳寺の、邦楽セミナーです。
望月太左衛先生や、江戸の遊郭のお話のセミナーでした。
誘われて参加した私の近くに座っていた泉さんと、音の話で盛り上がり、当時、泉さんが開発していた「音を抱きしめる」プロジェクトのとてもユニークなスピーカーを、女人往生環の舞台と、音響支援席の補助スピーカーに使うことになったのです。
泉さんは音響開発者というより、映像の表現のシステムの開発者です。
私には良く分かりませんが、ハリウッドで、2D→3Dデジタル変換の会社をされて、タイタニックやアバター、ナルトなどの3Dシーンを担ったとのことです。そういう専門家なのに、私の言うことを真摯に聞いてくれます。
ピアノのコンサートやオーケストラの収録をよくされているので、クラシック音楽やスピーカーの事で、おたくに盛り上がれる共通点があり、女人往生環「韋提希」では、スピーカー実験と、収録の両方をされました。あまりにも忙しいので、音響・演出をしていた私はもう頭とコードがぐっちゃぐちゃになりましたが、その時に映像を撮ってくれたお陰で、女人往生環の英語版映像も完成しました。
2020年12月の公演の収録には、BlackMagic社の6K,4Kカメラに、ハイビジョンカメラと、6台のカメラが使われました。
演出家席の後ろが、照明ブース、その後ろに収録用の機材が並び、泉さんと、2カメの田中雅樹さんが打ち合わせ中です。
本番ぎりぎりで、配信のスイッチングは私がやることになりました。理由は、台本とミザンスと呼ばれる役者の立ち位置、照明のきっかけを暗記しているのは、私だけだからです。舞台の演出は藤井ごうさんで、そのやってることをカメラにどう入れていくのか、そこが問題なのでした!
広角でないと収まりきらない舞台を、どうやって撮影するのか?稽古中に、小道具を作りながらいろいろ考えました。視点をどこに置くのか?
観客席だけではない視点も必要だとおもいました。
とはいえ、インカムもないのに、二人のカメラマンとマルチモニターを観ながら三人のチームでよくやれたなと思います。
ライブ配信は、やはり本当に難しかったですよ、今思うと。どうしてあんな勢いがあったのか。
舞台を演じる人、演出する人、ライブを進行する人、撮る人、スイッチングする人、もうそれぞれが最善の結果を尽くしたから出来たことだとおもいます。
ゲネでスチール写真を撮って下さった、萩原美寛さん、徳山七海さんにも感謝です。
私は映像が分からないけど、大内史子は、一時、映画の世界に居たので、彼女が言ってくれることを信頼して、いろんな作業をやっていきました。そういう人が近くにいて幸いでした。
2020年の年末から今年の1月まで編集地獄でした。とはいえ、私は編集に文句をつけるだけで、編集して下さったのは、泉監督です。
何回、太平洋食堂を観たことでしょう。もうお腹いっぱいですが、授賞式の大スクリーンは流石に迫力ありました。
昨年のコロナの中の上演から、まさかこの様なご褒美が貰えるとは思えませんでした。
これも、本当にめぐりあわせなのでしょう。
皆様、心より感謝致します。ありがとうございました。
映画祭で様々な人の頑張りを観てエネルギーはもらいつつ、どっと眼精疲労が来ています。これも加齢のせいですね。
おまけに頭痛もするので、寝て起きてと言う感じで、このニ三日を過ごしています。
また、「リアの食卓」の稽古が始まります。そろそろ起きなくてはです。