悪の華「妲己のお百 その弐」 | メメントCの世界

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悪の華「妲己のお百 その弐」

暫く故あって閉じこもってたあっしでごぜえますが、ちょいと故あって、浅草の吉原にある引手茶屋に行って参りました。

何しろ吉原でごぜえますから、大門をくぐる前に、国際通りを挟んで500メートルくらい向こうの、仏光寺の西徳寺さんで、

油を売りながら阿弥陀仏の話もして本堂の方にも手を合わせて、それから向かったんでごぜえますよ。

もう夕方の五時、お夕時の時間ですから、あっちこっちでゴーンゴーン鳴ってる時分なんですよ。

夕方といってもまだ9月ですから明るいけれども、何かこう、怪しいような後ろめたいような夕暮れ時を、

仲ノ町の方へ歩いていったんでさ。

吉原ってのは、鷲神社の裏っていうか、お寺とかがいっぱいある地帯の、兎に角向こうの一帯にある。

昔は、ここに車団七が居た、弾左衛門が居たなどという解説を思い出しながら、あっちへふらふらこっちへふらふら、

とにかく道を間違えないようにと進んで行きました。

けれどもやっぱり、行先のお茶屋さんの金村の方向が分からなくなっちまう。それで小腹も空いたんで、横丁のたこ焼き屋の

おねえさんに、「たこ焼き一つおくれ」と言って香ばしいのを買って、ついでに、「金村さんはどっちですか?」と間抜けなことを聞いてみた。

姉さんは鼻に抜けるような声で「今、兄さんに聞いてやるから、350円だよ」と言う。

奥に居る兄さんは正確にはおじさんだが、若い頃にはかっこよかっただろう渋いお醤油顔で、超美味しそうな抹茶金時氷を作ってらっしゃる。

「なんだって?どこだって?」豪華な抹茶金時をさばきながら、このチラシを見せると、

「桜鍋食うのか?」と聞くから「いやいや、語りの御芝居があるんですよ。金村さんの座敷で、おあしは3000円です」

と言うと、「あっちへまっつぐ行きな」と教えてくれた。

あったかいたこ焼きを抱えて、どこでついばもうか、常識のある奴なら中学生みたいに、道で食べたりしない。

でも、そこは非常識のわっちなので、病院の入り口の小さい公園で、めぐりんバスという周遊バス亭に座って、

美味しくて素朴なたこ焼きをついばんだ。

何にも無しにここへ来ることはないが、あの抹茶金時は食べてみたいと思った。

ついでに、大ばんやきも、お好み焼きも、素朴な感じで食べてみたい。

何をしに来たのか忘れそうになっていると、どうやら、金村へ行くような客が、あっちからもこっちからも、どんどん歩いてくる。

それで、たこ焼きのソースをペロッとなめて、慌ててその後をついてった。

 

吉原仲ノ町ってのは、随分と昔は助六さんなんかもいらしたそうで、かっこいい場所だったんだろうけど、今じゃすっかりコロナもあってか、

ネオンさえも光っていない。廃れたもんで、客引きが憮然と立っている。

値段の表をおもむろに眺めながら、へえそうなのか、とキョロキョロする。

一番嫌な感じの通行人だろうなあ。

兎に角、言われた通りにまっつぐ行くと、ちゃんと金村はあったさ。引手茶屋だけあって立派な風格。

花魁に会うのに、まずここへ来て芸者衆と遊んで、それからやっと迎が来て廓に行けるという、しきたりだったそうだ。

江戸時代の人は悠長なお遊びにうつつを抜かしたんだね。

そこで見たんだよ、怖い怖い女の話「妲己のお百 その弐」

 

恐い話というのは、どこかに笑いを隠し持っている。

人間が残酷なことや犯罪をする行為は恐ろしいことではあるが、同時に不格好だったり滑稽な姿でもあるからだろう。

それをかっこよく語るのはなかなかできない。カッコつけたらもうそこでアウトだから。

妲己というのは中国の悪女、あいつは妲己だ、というのは最上級の誉め言葉かもしれないが、藤浦先生の書く妲己のお百は、底知れない悪が女の形になっている。円朝の名跡を預かってる藤浦敦先生は、映画監督でプロデューサーで、三遊派宗家だ。御年は91っていうから、

うちの遠州森町に住んでる伯父さんと同じくらいだ。ちなみに、どちらも同じ位に元気なのだ。

それでもう凄い数の語り芝居を駒塚さんは語っているが、朗読じゃなくて、落語じゃなくて、大円朝がやったような人情噺なんですよ。

お百シリーズは、殺しがメインで本当に怖い話だ。

今回は、因縁話の二作目にあたる部分。

 

 新作のその②は、ネタバレしない方が絶対にいいので、あまり書けない。でも、①以上に怖いかもしれない。何だか、殺人事件に立ち会ったようなスリリングな体験だったので、お腹が空いてしまった。((笑))

 

 いつも以上にドライな語りだが、幕開きの中之島から兵庫の海辺の下りの情景描写は浮世絵を見ているようだった。

まあ言葉だけで、江戸時代の米問屋の船が堂島川から大阪湾を出て播磨灘へ出て行く様は、見事な描写だ。

書いている人は、駒さんに語らせて、海の船上へと視線を持っていかせる。

カメラの視点と言えばいいのだろうか、船に乗っていくしかなくなる。つまりは、その場面を撮影する映画監督の藤浦先生の視点で描かれている。だから、ずーっと視点が海上を動きながら、気が付くと海の魔物に取り囲まれてしまう。

 

それは家の中のことにしても同じことで、家の中の描写も、ふっと覗き込んだ先にあるものをカメラがとらえた映像の如くはっきり見える。そう、駒さんは、藤浦氏のカメラになっていた。何か余計なものを挟まずに、監督の脚本、コンテを撮っていくカメラ。

駒さんが瞬間瞬間で見せる顔は、何人もの登場人物をパシっと撮影したコマ割りを見ているようだった。

憑依、っていうのではなくて、何人もにどんどん変わる。

 

日本人は悪いことをするくせに、自分は悪い人じゃないと思いたい。

お話の中の徳兵衛どんも、最悪な男なのにちっとも自分を悪いとは思っていない。

大店の亭主が小間使いに入れあげて家を没落させる。不思議とそれで、非道をしているとは思わないようだ。

でも良心の呵責や、行き過ぎた乱行のつけはあとからしっかりやってくる。

忠義だの道徳だのと、雁字搦めの江戸時代、坊主は妻帯し酒気帯び法事をもっぱらとし、武家は武家でも武士道は廃れて権謀術数の

官僚として生き残れるかどうか、お家が続くかどうかが大問題。

庶民は働きその日暮らしの中で、上下関係や親子、義理人情に縛られて鬱屈が半端ない。

そこで近松やら浄瑠璃に出てくるのが心中、殺人、辻斬りに主殺し、姦通、人さらい。

平気で悪をするものは、羨ましがられたに違いない。

 

 お百のラストの悪事も、情景描写の俯瞰からクローズアップが効いている。

何にも後悔しない生き方を、この悪の華は知っている。

そういうものを語って語って……サラサラと語るのが最上。

 

きっとお腹がすきますよ。中江では御持ち帰り桜肉弁当を注文できます!

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ご予約は komachan.2662.koma@gmail.com