椿組公演「かくも碧き海、風のように」開幕しました。
怒涛の稽古をおえ、遂に初日が開けました。
パンフレットに書ききれない情報と、あとがきをアップしますので、観てから読んでください。
舞台の解説というより、脚本の題材となったもの、出典からどのような部分を抽出したのかというノートです。
主な引用、出典
堀田善衛著「若き日の詩人たちの肖像」同、全集1,7、15巻 筑摩書房
加藤道夫著「加藤道夫全集」1、2巻 青土社
芥川比呂志著「芥川比呂志エッセイ選集」新潮社
ゴーリキ著「どん底」「母」 筑摩書房
大笹吉雄著「日本現代演劇史」白水社
室伏高信著「山の小屋から」日本評論社版
鈴木正和著「昭和十年代はこうして戦争になった」創英社 三省堂書店
プーシキン著「私の大学」新日本文庫
ヴィルドラック著「商船テナシチー」白水社
永井荷風著「墨東奇譚」「断腸亭日乗」岩波文庫
益田喜頓著「下町公狂曲」毎日新聞社
音楽関係
あきれたぼういず
「スクラム組んで」より、アレンジ
「大東亜戦争双六」より (川田義雄・岡村龍雄)
「白いズロース」「闇が襲ってくる」「風になれ」 (詩・堀田善衞 曲・寺田英一)
「新宿二丁目」(歌詞・嶽本あゆ美 曲・モダンタイムズより)
主な登場人物
若者(ヨッチャン) 堀義也 北陸の没落した廻船問屋の末子。慶応大学の学生。戦争の時代をどう
したら生き残れるのか悩み、常に懐疑している。善くありたいと願うが無力さに打たれる毎日。
マドンナ(マア坊) 二〇代後半 人形劇団プークの劇団員でかつては築地小劇場にいた女優。
元共産党員。革命の未来を信じている。バー・ナルシスのマドンナとして店をあずかっている。夫が刑務所にいる。
百合鶴 (ダンサー)鶴亀フォーリーの看板女優。若者の故郷から花月へと移った。川田の妻になる。
祖母 六十代 若者の祖母、明治生まれの元気のよい御祖母ちゃん。英語が得意。
自由民権運動時代を懐かしんでいる。
兄 若者の3つ上の兄、遊び人。スキー選手。
従兄(正さん) 三〇代 読売新聞野球部に勤める元左翼。大学時代に拷問を受け転向するが、
地下活動に通じて未だに組織と連絡をとっている。常に皮の手袋をして傷を隠している。
ルパシカ 舞台監督助手、粗っぽくサーチンと諍いながらも一緒に演劇をしている。
サーチン 左翼演劇にどっぷり浸かった早稲田大学の万年青年、のちに乞食。何度も留置場入りの経験があるが、頑なに共産革命を信じている。大言壮語が癖ではあるが、ロマンチストでマドンナに惚れている。結核を病んでいる。地方出身者。
キタロウ 大学の同級生、共産党員の地下組織のメンバー。静かに目立つことなく温厚だが不屈の精神にささえられ拷問を経験しても反戦活動を続けている。
ハムレット 演劇青年、ノンポリのフランス文学部学生。
麻呂 文学部の学生。世間の流行を嫌い、独自の世界を探している劇詩人。語り口は穏やかで上品だが言葉の持っている熱が深い。
ナル 文学青年、詩人。演劇青年と左翼の間でどちらにも加担せずにいる。
永井荷風 小説家
頭取 花月劇場のマネージャー。小心者だが世相に敏感で変わり身が大胆。
将校1 二、二六事件の首謀者
将校2 二、二六事件の首謀者
刑事 若者を見張る刑事
坊屋 あきれたぼうやのメンバー
キートン あきれたぼうやのメンバー
シュバリエ あきれたぼうやのメンバー
川田 あきれたぼうやのメンバー.
地面師 牢名主
電線泥棒 窃盗犯の若者
仏 留置所の強殺犯
ふじ子(ダンサー)関西出身の踊り子。エネルギーに溢れ欲望を隠さない。
亀子(ダンサー)鶴子の二番手で最も若い。 トップを狙っている。
龍子(ダンサー)教養があり、今をよしとはしないが絶望を抱えている。
ナオミ(ダンサー)
226将校の妻 226事件の中心人物の妻で夫の汚名を雪ごうとしている。様々な流転の果てに街の女になる。
京子 山の手のお譲さん。麻呂たちの演劇研究会に参加する。麻呂の恋人。
その他/ 留置所の女囚、小僧/女子学生達/兵士、薄田研二、ラジオ放送、看守、新聞記者、教官
*俳優は複数の役を演じる。
あとがき
堀田善衞は1918年に富山県伏木(高岡市)に生まれ、 1998年に亡くなった。昨年は、生誕100年であった。同じく、年加藤道夫(1918- 1953)も生誕百年であった。堀田の「若き日の詩人たちの肖像」という小説は、ある種バイブルのようなものである。文庫本上下二冊、そしてそこに含まれる思想、文芸、芸術論はある種のミクロコスモスを展開しているからだ。そこに登場する人々が誰かというのは、種明かしがずいぶんされている。大正七年~九年生まれの人びとには、随分と文学者、詩人、演劇人として大成した人々がたくさんいたし、堀辰雄や折口信夫、西田幾多郎なども、生で講義をしていた時代だ。戦争が文学者らを作ったのかもしれないし、その才能あふれる人々のもっともっと多くの若者は戦争で殺されてしまった。無念極まりない。
さて一方、芸能や演劇の人達ははっきりしない、芥川比呂志と加藤道夫はすぐに分かるのだが。その小説から多くを借りて戯曲を書く時、演劇の社会に居る私にとって、自然と演劇方面の人間関係が中心となった。芥川比呂志も言っているが、「小説などは主人公がぶつぶつ言っていれば話が続くが、芝居ってのはその人物が立ち上がって町を歩き、生活しなくちゃならない。」つまり文学者を登場人物とするのは至難の業だったので早々に諦めた。
新協劇団の周りの演劇青年たちが多数現れる。実際に留置所で同時期に会ったという滝沢修、そして宇野重吉、左翼演劇の青年の短歌文芸学という名の青年などだ。実際に、久保栄の「火山灰地」初演時にエキストラとして部落祭りのシーンで飴屋を演じたというエピソードもやはりエッセイにある。何が真実で真実でないか、やはり小説なだけに異論もあるけれども、種明かしをすればするほどその関わり合いの濃さ、範囲の広さに圧倒されるのだ。
一方、芥川比呂志や加藤道夫らの新演劇研究会の動きは、新劇の流れからすれば別の水源から湧き出た清水のようなものだ。明治末期からの冬の時代を通り過ぎ、大正のちょっとした自由の風の小春日和、そこから治安維持法による昭和の凄まじい弾圧によって徹底的に国家権力に潰された新劇の原野で、ふいに咲いた演劇への熱情だ。第一回のフランス語による上演、ヴィルドラックの「商船テナシティ」では堀田は音響係とその他大勢の通りすがりの人を演じた。それを最初に知ったのは劇作家清水邦夫の「セリフの時代」掲載のエッセイだった。「アデュー」というセリフでガラガラと緞帳が下りる様子が書かれている。「商船テナシティ」はマルセイユの港からカナダへ向けて出航する船で、物語は新天地への移住を目指す二人の若者が港に現れて始まる。劇中、船は機関の故障から遅延し、若者らは船宿に二週間ほど逗留する。その間に一人は宿屋の女中と恋に落ちて出航をとりやめ、一人はそのままカナダへと出発する。その船に乗るのか乗らないのか?自分の行く先を変更できる自由があるのかどうか?世界大戦の間にあったつかの間の平和と自由が見える。
芥川や加藤らはその芝居をフランス語で上演すれば、演劇上演ではなくフランス語学習発表なのだという苦しい言換えをし、蚕糸会館でのゲリラ的な上演は成立した。その後は築地で1940年の10月にアメリカ戯曲を上演するなど、奇跡的な公演が成立していく。しかし、新演劇研究会のメンバーらも一人、また一人と出征していき、無期限休会となる。
小説「若き日の詩人たちの肖像」の中で最も興味があるはヒロイン・マドンナの存在だ。元劇団新築地の団員で、人形劇団プークの団員だという彼女は、実際にあった新宿2丁目のバー・ナルシスの女給であった。そしてもう一人のヒロインである文子は、あきれたぼういずの川田義久氏の奥さん・桜文子だったことを、堀田善衛がエッセイの中で自ら明らかにしている。当時の興行のレパートリーには桜文子という名前がある。なかなかスリリングだが、本当に魅力的なヒロイン二人の活躍によって、この長大なバイブルに生きたぬくもりと心臓の鼓動がときめく仕掛けになっている。
マドンナの略歴は小説で語られるとおりなら孤児で芸人夫婦の養子となり、紆余曲折を経て築地小劇場に潜り込み、そこで片っ端から左の本読み、学び、演劇人生を始めたことになっている。彼女はプーシキンを愛し、ゴーリキの「どん底」をバイブルとした築地世代の「古い人」かもしれない。舞台美術家の夫は長期拘留されて囚われ、ようやく釈放されたら、次は大陸に渡って軍部の管轄において演劇活動をしようというのだ。容赦ない弾圧の中、「新体制」という近衛首相を中心とする政治の動きに、左翼は取り込まれていった。その中で、久保栄が検閲を通り抜けて残した「火山灰地」は上演時間五時間近いが、村山知義の演出によって世の中に抵抗を訴えた。
2.26事件の叛乱将校らが叫ぶ八紘一宇の天皇を頂点とする軍事内閣の構想は、右翼思想から生まれた国家社会主義という名の全体主義だ。それが近衛内閣によって大政翼賛の新体制にブラッシュアップされ、東条内閣に到って完成された。当時の政治評論家の室伏高信がコラムに書いているが、ヒットラーのナチス・ドイツ、ムッソリーニのイタリア、フランコ将軍のスペイン、スターリンのソ連と独裁と全体主義というものが世界中を脅かし侵略を始める。中身の色や主義主張にかかわらず、政治の方法論としての全体主義だ。話を始めると長大になるし、いろんなルサンチマンも呼び込むだろう。
この脚本では「どん底」というのが一つの通奏低音となっている。とにかく今では「どん底」を舞台で見た観客は少数派なのだが、築地の新劇の歴史以来、もっともその時代の観客の心をとらえたそのセリフの数々は、至言ともいえる。今回の劇中に登場するサーチンという左翼演劇青年にとっては、もはや現実と芝居のセリフに境目はない。そして今、この現代の私たちにとっても、「嘘」をキーワードに繰り広げられるサーチンの長台詞は、フェイクに満ちたこの世界に鋭い刃を向けるのだ。そういうどん底の上演が観たいものだ。(あ!秋田書店の手塚治虫「七色インコ」第一巻では「どん底」が20Pで読めます。)
もう一つはドストエフスキーだ。小説冒頭や、チラシの惹句に使われているのはド氏の「白夜」の冒頭だ。堀田は小説にド氏の「白痴」「カラマーゾフの兄弟」「悪霊」「罪と罰」について主人公の若者の感想としての分析を載せている。かつては青春の必読書であったこれらのドストエフスキーも、名前が長いとかこんがらがった人間関係ゆえに振るわなくなった。しかし今では現実社会がドストエフスキーを追い越している。相模原の事件などは、罪と罰、カラマーゾフの中の逸話と似ている。
戦時中の「新体制」「日本主義」を、堀田は悪霊と読み替え、加藤道夫は「オケラの引く玩具」と言った。様々な思想が政治を動かし様々な国の「国体」となって顕われたあの時代、悪霊が世界中に跋扈していたのだ。その悪霊はまた力を持ち始めてネットの仮想空間と現実世界をのし歩き始めた。
なんだか、新幻魔大戦みたいデツネ。
いくら書いても終わらないので、この辺りで時間となりました。
オソマツ!
原案脚本・嶽本あゆ美