韋提希(イダイケ)夫人の憂鬱
8月3日に邦楽わーくしょっぷで「王妃・韋提希の午睡」
を試演します。
なにそれ?って思うんですが、イダイケさんという王妃様のどうしようもないお悩みの話です。
観無量寿経にそのことが、あーでもないこーでもない、と書いてあります。
面倒な人は、手塚漫画の仏陀を読んでください。って、手抜きですね。
このお経の中では、彼女のお悩みは解決されているようですが、どうも私の中では解決しないんです。
それで、「悩みのないところへいきたい!」という彼女が本当はどこへ行ったのだろうか?と思って考えました。
私もそうですが、悪い予言は信じるが、いい教えと言われるような言葉は信じがたいものです。
私の親戚には、曹洞宗と日蓮宗と立正佼成会がいますが、結構、真面目にやってます。
それでもって、功徳を積むっていうかボランティアやったりいろんなことをしていて、エライなあと思うのです。
私とは言えば無宗教なんです。もっというと葬式のときだけ、宗教儀礼があって良かったなあとおもいます。
御詠歌というのが私の地方にはあって、それを聴いていると、道をたどって死んだ人が旅してる。
それがどうしてかというと、赤ん坊のころに私を育ててくれた祖母のことがあるんですが、
私が高校生のころ、忘れもしない学生音楽コンクールの東京の予選の前々日に、末期がんで痛みに耐えかねて井戸で自死しました。
緩和ケアも無い頃で、痛く痛くて堪らないという苦しみから逃れたんですが、まあ大騒ぎでした。人生最初の二日徹夜になりました。
でも、音楽コンクールの伴奏を頼まれていたので、忌引きですが東京のヤマハホールへ行って伴奏して、弁当たべて帰ってきました。
帰ってきてからは御詠歌だったので、従妹と砂糖水??を50人位の人に配るという手伝いをしてました。
もう忙しくて忙しくて、祖母が亡くなったことはかなしいのですが、痛みから自由になったんだというのは喜ばしかったです。
いろんな悩みがありますが、イダイケの悩みは息子の成長とその結果です。
でも、彼女って、本当は自分のことばっかり考えていただんじゃないかなあと、自分のことは棚にあげておもいます。
まあ、大昔のインドの王宮もそこらへんの家庭内の事情も変わらないってことですね。
さすが!お釈迦様!あーなんだ、こーなんだ、とクライアントのイダイケさんにアドバイスくれるんですが、はて、それも信じらないと始まらない。
皆さんも、いろんな悩みを観無量寿経の最初の部分にあてはめてください。後ろのアドバイスは何一つ、変わりません。
書きながら、オウム真理教の死刑確定者7人の処刑のニュースを聞きました。
岩波文庫で「浄土三部経の下」を読んでると、尊師!とかあの部下の人たちの難しい呼び名が出てくるので、懐かしいなあと
思いつつ、教祖の言うことに従って家を出てサンガに入るというのは、本人のアクションと周囲のリアクションという現象のみで言えば、オウムも仏陀のサンガも近いものでしょう。
「お前やめとけよ、絶対、だまされてるぞ!」
ってみんな、言ったと思います。
でもそこへ行ってしまうのは、それぞれが他人と共有できない悩みがあったんでしょう。
私の知っている老人ホームでは、毎日誰か亡くなります。
そこに居る人は生きて外の世界へ出ていくことは、とても少ないでのす。
アルツハイマーがすすんだあるおばあちゃんがいいました。
「もちろん、ここで良くしてもらってるわ。でもね、何だかわかんないの、私はここにどうしているのか、家族がどうなったのか、わかんないの、不安でたまらない。怖いのよ。分からないってのが怖いのよ」
分からない不安は、現代人には無いようですが、やはり他人というのは分からないし、自分のことも分からないことがある。
どうしてこんなにイライラするのか、どうしてこんなに他人と分かりあえないのか、どうしてうちの息子は忘れ物が多いのかわからないんです。
おばあちゃんは、多分にして病気は深刻ですが、分からないということを知っていてそれだけに、人間は分からないことを
抱えていることの重さを教えてくれました。