2013年の7月に初演した「太平洋食堂」は大逆事件を和歌山市新宮から見た作品だった。始まりは中上健次原作の「千年の愉楽」から脚本を編んだ「オリュウノオバ物語」
今ではその時の稽古台本もどこにあるのか分からない。一冊は、新宮市の佐藤春夫記念館に展示されている。
私にとっての高木顕明というのは、どうしても中上健次の小説群の中にいるレイジョさんに近い。もっともレイジョさんは、祥月命日に生者よりも死者と会話しながら、路地の家々を回っている人で、後ろ姿ばかりが浮かびあがってくる。毛坊主と言われながらも、大逆事件の無住となった浄泉寺の檀家の家々で経を上げ続けた。元々のモデルは名前からいうと高木礼譲なのだが、この人の生涯とは何の関係もない。ただ、名前を借りたのだろう。
演出は大橋也寸さんで、三年間の死闘?の果てに脚本を書いた。三年かかったんだじゃなくて、まず、五時間かかる歌舞伎みたいなものを書き、それから超SFなマージナルな物を書き、それから大ケンカして、さっさと「オリュウノオバ物語」を書き上げた。続編も書いたが、岸田今日子さんが他界なさったので、上演されなかった。
大橋のやっさんは、中上氏を「やさしさ」「かなしさ」と言う言葉で語った。へえ、と思うことしかできなかったのが、10年前の私。
「太平洋食堂」初演の時に、オリュウノオバのお孫さんが高円寺まで観劇に来て下さった。新宮でも再会したが、オバというのは小説のキャラクターではなく、本当に実在したのだと新宮へ行ってとても良くわかった。そのオバからの口述が昇華されて小説になったのだ。だから、小説を読んで分からないことは、新宮へ行くようになってよくわかった。土地の記憶はそこでしか聞けなかった。
「半蔵の鳥」の中で、半蔵は夜、山道を不安に駆られて歩く途中、幽霊を見る。そのことをオバに話すと、オバはきっと前の住職が路地の者を心配して幽霊になって出てきたんだ、と半蔵に言う。オバらにとっては、顕明は殺されたのである。実際には、秋田監獄で自死したのだが、その「殺された」という思いが土地の記憶なのだ。
私の実家の地方は曹洞宗が多く、真宗を全く知らなかった。その宗教の中で土地の住職というのは、ある種の柱なのだ。現世的なモノサシでしか生きていない私には、祥月命日のお詣りと、日常の用事の優先順位は日常である。しかし、長い長い講という組織を中心に前近代を生きてきた土地にとっては、宗教行事を壊されその中心人物を失うことは、悲痛なことだったのだ。
南谷の墓地の写真がチラシの写真だった。そこへ行くと、本当に死者が積み重なっていることが実感としてよくわかる。そして、オバの目の前の路地は極楽浄土に繋がっている。いや、その路地こそが極楽の蓮の池なのだ。それは、真宗というものに触れるまで、理解できなかった。
オバは、レイジョの唱える経から、感覚として「地獄は一定すみかぞかし」をひっくり返して語ったのじゃないかと。そんなことを最近思う。
「地獄極楽はあの世にあるんじゃないよ、この世にあるのだ」
と顕明の娘は語ったと言われている。
祈り、というものに力があることを、「彼の僧の娘」の取材で思い知った。それはだんだん、私自身が若いころのように、物事を進められなくなり、体が悲鳴を上げてきたこととも関係している。どうにもならないものがあることを嫌というほど知った。病というものが、勿論、原因はあるのだが、心から出てくるものが大きいことも思い知った。
顕明の実直な日常は、残された「復命書」という宗派の調査の下書きからも明らかだが、実際に居たオリュウのオバらの口伝えの中では、よりひっそりとしている。
過酷な労働による若年での死を強制され、絶対的な貧しさや差別によって虐げられる弱者に静かに寄り添う南無阿弥陀仏は地の下へ下へとのびている。彼が書いた「余が社会主義」は、一見して新思想へのあこがれと仏教を結ぶようなキャッチーな部分に目が行くけれども、彼がそれを信仰告白として書いたこと、外へ向かって発信するつもりのものではなかっということを理解して読み直すと、その葛藤の強さに驚く。信仰と世の中の繋ぎ目や現状への懐疑をどれほど苦しく抱えていたのだろうか。
新宮を追われた妻子は、苦界の中で細く細くわずかな接点で繋がりあって支えあっていたことも、今回知ることができた。
芸者に売られた顕明の養女の一生は苦難の先に、精神の豊穣があった。それぞれの信仰は違うものだが、不朽の信仰が打ち立てた心は、どんなものでも壊すことができなかった。大逆事件は、日露戦争の非戦運動と国家帝国主義の暴虐の戦いの中から既に始まっていた。24人の死刑判決の後、日韓併合、シベリア出兵、大陸への侵略、第二次世界大戦とひた走った歴史の裏で、ひっそりと生きていた人々、私が知らないたくさんの人生があるのだろう。全てが明らかにされる必要があるわけではないけれども、そういう苦難がこの先、来ないという保障はない。
読み返した泉鏡花の「歌行灯」、石牟礼さんの「苦界浄土」、何かが語られると必ず出て来る「売られる娘たち」
近代史の中で見捨てられてきた「売られる娘」、その一生が人の記憶に残ることは稀だが、一人一人の人生がやはりそこにあったことを稽古しながら思うのでした。
弱者を見捨てる社会がどんどん進む中、高木加代子さんの生き方というものは、一つの光でもあるのだった。祈りは強かった。写真は、ホール稽古での明樹由佳さん演じる「高代」
「高代覚書」は来週、東京試演会を迎えます。

