公演パンフレットより ご来場の皆様へ
劇作家を志した頃に出会った堀田善衞(1918~1998)の著作は、私の「世界の見方」を根本から変えてしまった。私の劇作への欲求は堀田の「漢奸」から始まり、日中戦争を追いかけて早15年近くになってしまった。大陸から見た日本、その視線は思い切りシニカルでドライだ。その後も「祖国喪失」「歴史」「滬上天下1945」から戯曲世界を紡ぎだしてきた私はやはり、「時間」へのオマージュを書かねばならないと思った。
その2014年の「南京/Nanjing」から二年、世界は変わり続け更に混沌としている。さて、「時間」が岩波現代文庫で復刻された。とても嬉しいことだ。いっそ全集を文庫で出してほしい。 若者と未来のファンの為に。お断りが必要だ。小説中の登場人物は、劇中のキャラクターとは似て非なるものである。そんなふうに手前勝手な創作を許してくれる堀田百合子さんは、「堀田善衞の娘とはこうなのだ」というべき聡明で潔い女性だ。そのご理解の御蔭で今の私がある。
敗戦直後、大陸に残留した28歳の青年は滅亡の確信の中、ただ物事を見るということに専念した。さして何もせず本を読み、武田泰淳と同居しながら敗戦を生きた。 『観察者』だった堀田が残した上海日記は「滬上天下1945」にまとめられて出版された。そこにあるのは綺麗事ばかりではない。しかし、日記を世に出すべきだと 思った人々が居たのだ。英断に感謝する。私はそこに滅亡と戦争の罪悪を見、大陸で「漢奸製造業」のような事をしていたという日本人文化人の懊悩を知ることができるからだ。客死したクララ室伏の横顔も伺える。
過去の人間は戻ってこない。それさえも私たちは忘れる。 死者が生きる場所は記憶の中だったり、こんな物語の中だったりする。犠牲者の数字の中には死者は居ない。 数の論理、それは恐ろしい。人の人生は二つと同じものが無い。だから失われてしまえば償うすべがない。 世界中で戦争が広がっているこの現実を、堀田善衞にすがりつきながら考える日々だ。敗者の視点で歴史や現実の尺度を測り直す。 戦後70年たって皆、どうなったのか?あの頃の日本人、その多くが兵士として大陸に立った。人々が抱え込んだ膨大な物語、口ぐちに伝えられたそのほとんどは語るべき人を失い、置き去られ、記録されることもなく消えて行った。やがて徴兵された兵士らが故郷へ戻る時、平らかな人間として家族の一員に還ることができたのだろうか?魂が安らぐ日は来たのだろうか?虐げられた女達は?「時間では「記録」するという行為によって答えを導いてもいる。真実の記録こそが死者への餞ではなかろうか?
また喋り過ぎてしまった。
ところで嶽本はこの二年間、「ダム」「太平洋食堂」のプロューサーばかりしていた。それはあまりバランスが良いとは言えないし、作家とは言えないだろう。というわけでこの公演が終ったらしばらく深い深い書の海と、ありきたりな日常にモグリます。私はもっとものを書きたい、堀田善衞を読みながら。 それが上演されるかどうかは知ったことではないけれど、いつかまた「劇が孵化する日」も来るだろう。この公演を支えてくれた友人と観客の皆様に心から感謝いたします。演劇は一人ではできない。 そしてそれは経済活動でもあるのだ。本日はご来場、誠にありがとうございました。
