太平洋食堂のご報告・ラスト | メメントCの世界

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演劇ユニット「メメントC」の活動・公演情報をお知らせしています。

ご報告①

いよいよ、明日から「安全区/Nanjing」発売です。

しかし、ちょっと戻ってご報告。
1月30日に都内の正春寺にて、大逆事件の真実をあきらかにする会主催で管野すがの墓参と、報告会がありました。毎年、大逆事件の研究者や顕彰活動の人が集まり、新資料の発見や活動の報告会をしています。今年も、あちこちから新たな資料などが発表されました。

その「大逆事件ニュース」に掲載しました「太平洋食堂」上演のご報告を転載します。制作っていうもの、演劇プロデュースについてのある種のモデルでもあります。



「太平洋食堂」新宮への路
劇作家 嶽本あゆ美(メメントC主宰)
今年七月、メメントCの演劇「太平洋食堂」が杉並区の劇場、座・高円寺で再演となり、更に大阪、そして物語の舞台である新宮の地でも上演が行われました。地方公演は決して平坦ではなく、初演以上に困難な工程ではありました。しかし、全国各地からの「人の思い」によって、2013年の初演から二年後に、この上演活動は実を結ぶこととなりました。様々な形でご協力いただいた全ての皆様に感謝致します。

 「太平洋食堂」は新宮の医師・大石誠之助を主人公に、大逆事件を熊野から照射した群像劇です。通常、東京の平民社を中心に語られることの多い大逆事件ですが、日露戦争開戦の年に洋食レストランをオープンした大石誠之助の魅力に惹かれ、2009年にこの戯曲を執筆しました。戯曲は書いただけでは未完成で、上演には演出家、俳優、美術、音楽、照明、衣装、床山、舞台設営、広報、制作という幅広い分野の専門家が必要となります。また舞台芸術は興行でもあり、公演成功には脚本執筆とは別の能力、プロデューサーとしての力が必要になります。杉並区や劇作家協会、文化庁助成金の支援があっても、大規模な演劇の地方公演は、ある意味「博打」でもあります。しかし秘密保護法、安全保障法案など、刻々と時代の空気が変わる今こそ、地方の若い世代にこの芝居を観てもらいたいという思いが沸き上がり、この「博打」は「大博打」になってしまいました。各地の上演決定までの経緯は非常に複雑で、それについてもご報告したいと思います。

企画準備

今回の再演の準備は、2013年の12月から始まりました。初演を見逃した方から、多数の問合わせを頂き、新聞の劇評でも高い評価を頂いたので、再び杉並区の劇場、座・高円寺に提携公演の企画書を提出しました。審査の結果、二〇一四年の三月にYesというお返事を頂き東京再演が決定しました。同時に関西でも公演ができないだろうか?という模索が始まりました。
 まず取材にご協力頂いた大谷大学の泉惠機先生、東本願寺解放運動推進本部の山内小夜子さんに相談を持ち掛けました。それから半年の間、制作協力である青年劇場さんと共にいくつものパターンの公演計画や予算見積もりを作り、俳優さんのスケジュールの調整を始めました。

 同様に新宮公演についてもダメで元々と、企画書を準備しました。そして2014年6月の新宮での遠松忌に、出演俳優の明樹由佳さんと共に赴きました。南谷墓地での法要の際、田岡新宮市長に会えたので「新宮市で公演実現を」と、公演のダイジェスト映像を手渡し、協力をお願いしました。
 会場候補であった新宮市民会館は、建て替え工事計画の為、二〇一五年からの市外の団体利用申請が出来ません。まず使用申込の許可が必要だったのです。新宮市としての主催事業公演はすぐに断られましたが、市民会館の使用と仮押さえについては検討して下さるというお話でした。その後、浄泉寺の法要の後にも宣伝の時間を頂いて、東京再演の宣伝をし、「万が一、皆さんのご協力を頂ければ新宮公演を実現したい」というスピーチさせて頂きました。また東本願寺から遠松忌に来られていた多数の大阪教区の方々と懇談し、「太平洋食堂の関西公演の実現を!」とアピール。まるで選挙運動のように(笑)、明樹さんと手分けして沢山の方にチラシを手渡しながら、応援のお願いをしました。

 明樹さんは誠之助と妻のえいが歩いた町の空気を感じたいという事で、初めて新宮に来られました。彼女は速玉大社の界隈を歩きながら百年前に思いをはせつつ、この熊野川のほとりに立つ新宮市民会館で、百年前の人物を演じる意義を深く感じ、それ以降は私と二人三脚で上演活動に携わって下さいました。
夜は新宮市の「顕彰する会」との懇談会を設定頂き、公演実現へ市の様々な団体と共に応援していただけないだろうか?と相談をしました。やはり問題は概算で七百万という予算規模と、一般料金四千円の入場料金が、新宮では高すぎるという事でした。
東京に戻り地方公演の資金をどうするか?という現実問題をひたすら考え、人件費、機材費、輸送費、移動宿泊費、などをエクセルに打ち込み格闘する日々が続きました。一つ前進した事は、田岡市長の「予算は出せないけれど協力します」という言葉通りに市民会館使用の保障を頂くことができました。しかし、現実的には実現不可能ではないか、という危惧を誰もが抱いていたのです。

 関西での上演計画は、その年九月にいよいよ真宗大谷派の大阪教区の皆さんとの話会いが始まりました。その後、何度も会議を重ねて上演の為の実行委員会の母体が発足し、そこから真宗大谷派の主催公演が正式決定するまでには、更に時間が必要でした。大阪教区や難波別院、解放運動推進本部の山内小夜子さんらの懸命な取り組みで、ついに11月に真宗大谷派主催での上演が決定しました。

 通常、大規模な演劇興業で1年を切っての開催決定は冒険でした。俳優の皆さんの東京公演以降のスケジュールも仮押さえしたまま、各プロダクションに結論を待って頂きました。全てを「見込み」で計算し、そのリスクを背負って推進していく外、地方公演の実現の方法はありませんでした。決定と同時に関西の演劇鑑賞団体、和歌山、泉南、奈良、彦根、京都、神戸の鑑賞会にチケット協力をお願いする企画書を送り宣伝活動を開始しました。

 大阪公演の御蔭で、輸送の費用や基本的な大道具制作費の分担などの制作実費軽減の見込が立ちました。もう一度、新宮公演実現について検討を始めました。地元新宮からは、人口2万人の町で、例えチケット料金が二千円だったとしても、1千人以上の観客を集めることは不可能だと、大きな懸念が出されていました。確かに協力をお願いされる顕彰する会の皆さんにとっては、大きな負担となります。それ故、そのまま諦める方が道理に適っていたのかもしれませんが、この機会を逃してはもう二度と、新宮公演は有り得ないと大変迷いました。なぜなら、他の年に全て一から再々上演する事の方が、今回よりもはるかに難しい事は明白だったからです。新宮公演実現の大きな障壁=「資金集め」をどうすればクリア出来るか頭を抱えました。もちろん個人では背負える額ではない、そこへ「妙案」が飛び出しました。