あっという間に舞台稽古です。
6月29日より座・高円寺1に劇場入りしまして絶賛、舞台稽古しております。さすがに、再演組は最初から飛ばしてます。汗もツバキもご飯粒までも!
最前列のお客様、もしもご飯粒が飛んできたら申し訳ありません。
料理も本物を使うので、制作と女優さんチームで毎回、カレーに五目寿司、オードブル、玉ねぎスープ、焼き肉をつくります。パンはさすがにスーパーで買ってきます。
差し入れに五目ずしを事前に頂けると大変たすかります!!
さて、太平洋食堂には当時のジャーナリズム界の生臭い状況が登場します。
日清、日露戦争とともに、新聞社は大陸までも出かけて戦況を読者に伝えるようになりました。従軍特派員には有名作家も行きました。状況は講談師が語るが如く文字にされましたが、絵画でも伝えられ、写真ももちろん多用されていきます。
じきに新聞社は大本営発表をもうてんこ盛りに悲憤慷慨浪花節で書けば書くほど、新聞が飛ぶように売れることに気が付きます。だって、売れなきゃ潰れますからね。
漱石だって、朝日新聞に入社して「これで我が身も安泰!」となるわけです。
新聞の発達は戦争と深く結びつきました。
明治時代には今よりもっともっと沢山の地方新聞が発行されていました。あちこちの土地で、実業界ごとに新聞を出したし、身近な世間話を拾うような無責任な記事から、とんでも暴露話や身の上相談、美人投票と、夕刊フジとかそういう感じの新聞もたくさん出されました。
百年前の新宮には、熊野実業新聞、熊野新報、牟婁新報などに代表される地方新聞が毎日、自己主張を繰り広げておりました。大石らもそれに沢山コラムや都都逸を書いていました。
まるで、今のFBやツイッターの様に頻繁に。一度投稿するとやめられなくなるようです。
それが活字になって町民の間に一石が投じられ、話題になり、井戸端や辻の立ち話で、町の政治問題が語られていたわけです。実際、新宮に行くと非常に政治と町の市井が近いように感じます。
「政治のことを話すと嫌われる」それは大都市郊外で生活すると実感できます。
保育園時代に、公立保育園民営化という問題で初めて政治というか行政と関わりましたが、何というかですね、言わなきゃなんにも変わらないということです。その時、晩婚、高齢出産な親が頑張る中で、若いお父さんお母さんも声を上げてくれました。そしてなけなしの年休をあちこちの私立保育園に視察に使ってくれました。我が子可愛さですが、そんな風に声を上げることを覚えた人は、声をまた上げてくれるでしょう。
新宮は今でも政治の話題で町が沸騰しています。
昨年、今年と6月の遠松忌に行きました。そこではたくさんの地方記者に会いました。
今、新宮市内には「紀南新聞」と「熊野新聞」さん、川を渡った三重県には吉野熊野新聞社、地方紙が充実しています。中部と近畿の境目に当たるので、中日新聞も勢力圏です。
そんな町で、ある新聞に出会いました。
「しんぐうし壁新聞」です。
壁新聞というその新聞は、浄泉寺のご門徒さんでもある、釈多聞さんが発行しています。
新宮市での上演について、地元から様々な声が上がっています。その中の声の一つにどのように回答すればいいのか心身疲労困憊しておりました。
作家の自分、プロデューサーの自分、ここまで走り続けた自分、様々な自分の中で折り合えないものがどくどくと脈打ち、言葉の一つ一つ、それの持つ毒と威力と魂が爆発寸前でもありました。
そして浄泉寺で多聞さんに会い、次の日、喫茶店パールでお話を聞きました。
待ち合わせの場所を、寺から右にいけ、と言われて私は寺を背にして建っていたので、逆方向に進んで待ち合わせに遅れました。開口一番、多聞さん曰く
「人を信用しないから、道に迷うんじゃ」といいました。「いえいえ、私は寺を背にしていたのです」という言葉はひっこめ、路地の言葉に耳を傾けました。
「アバラ骨が畳まれる思いだった」
本宮の人で山仕事を生業にしていた人に、どんなにキツイ仕事だったかを聞いた時に耳にした言葉だそうです。アバラが畳まれるほどの仕事とは、紀州で切り出された材木を川を流す筏で河口に運ぶ仕事をしていた人でしょうか。私にしたら12キロの次男を背負って両手にスーパーの買い物を持ち、長男の手を引いて帰る保育園の帰り路を思い出しました。
彼が私の問に答える内に教えてくれた路地の物語は十年前に一度聞いた声でした。オリュウノオバの語る物語、その横にたむろっているオジたちの溜息交じりのボヤキです。
「エラい目ぇに会いに出て来たなあ。」
それは、そこで赤ん坊が生まれると言う言葉だと彼は語りました。おめでたいのではない、これからエラい目に会うのだと謂われた魂は、それでもオギャーと命の叫びを上げるのです。オリュウノオバの語りの向こうにある情景が一気に広がってきます。過酷な生を生きざるを得ないその境遇、それを作りだすのは人と社会です。明治時代、封建制が終わった近代は路地にもっとも激しい貧困と抑圧を生みました。大本教の教祖の言葉に「獣の時代」「我よしの時代」とされるその近代は、他人を顧みることなく収奪していく世相を表しています。
大逆事件から百年、まだそこにある暗がりは差別としっかりと繋がっているのでした。多聞さんは言います。「近いんじゃよ。ここはまだまだそういう事と近いんじゃ」
その新宮で大逆事件についての劇を上演するのは私達が初めてなのです。
一番胸を打った多聞さんの言葉がコラムにあるので引用させていただきます。
「市民の声を聞いて新聞を書くにしても生まれ育った環境の違う五人が寄れば五つの違う意見がある。梅雨時に雨が降れば新宮の商人はうっとうしいと言う。その雨の中、熊野川町行くと、ええ湿りやのと言う。田を耕しているものと、耕してない者の違いで、どちらも間違いのない話である。本宮の人の話で、若い時、山仕事をしていて言葉で言えない偉い(大変な)仕事だったと言うが、どんなに偉い仕事であったか実感がわかず、聞きたく、丸太を担いで運ぶ仕事で、アバラ骨が畳まれる思いだった。と語ってもらって納得した。何が正しく間違いか二文字の境は知らず、違う五つの意見を新聞に書くことは難しい。だが、より弱い者の立場に軸足を置き、この事はこの様に思うと根拠を示し、真か偽か問う事にしている。それ以外の方法は知らない。」
この言葉を頼りに新宮へ行きます。明日は東京公演が開幕です。どうぞ、お見逃しなく。
