徒然なか ・・・ 嶽本 あゆ美(「当日パンフ」より) | メメントCの世界

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徒然なか ・・・ 嶽本 あゆ美

 「徒然なか」と書いて「とぜんなか」と読みます。侘しさ、人恋しさを表すのにこれほど深い日本語に出会ったのは初めてでした。熊本弁に限らず方言の心地良さには、標準語では決して表わしえない豊かさと陰影があり、それはその土地に降り積もった歴史の営みそのものなのだと、一人で納得したのです。
今年の九月、熊本の劇団ゼロソーの皆さんと一緒に八代、相良、五木を訪れました。後付けの取材でしたが、川辺川ダム反対運動の中心的役割を果たした方々に出会い、8年前に資料の中で知った人々とようやく繋がることができました。地縁の無い私を迎えてくれた皆さんのなかで、「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」代表を務める相良村の緒方医院の院長先生の言われた「ああ、あなたも静岡県の方ですか、それなら全く相良にご縁がないわけでもないのですよ。」という言葉にドキリとしました。熊本県の相良・人吉を治めた相良氏は、静岡県の遠江(とおとうみ)相良荘から出た相良氏で、鎌倉時代に追放されて肥後に移ってきたという事を緒方先生はおっしゃったのです。さて、鎌倉時代が遠いかどうかは個人差のあるところですが、五木村の方にとって先の戦とは西南戦争のことだそうですし、五木村の奥にある五家荘は平家の落人伝説が有名です。そして緒方先生の「あなたも」と言う言葉は、今年、病没された高橋ユリカさんの事が先生の頭にあったからです。
 この戯曲を7年前に書いた私は、それからずっと川辺川問題に蓋をしていました。今年になって初めて高橋さんの「川辺川ダムはいらない」(岩波書店2008年刊行)を読むことでダム工事中止後の地元の動きを知り、大きな感動と希望を持ちました。私は高橋さんを著書でしか存じえませんが、今こそ多くの方に読まれるべきだと思います。
 相良村を後にした私達は、445号線を走り五木村交流センターのある造成地の辺りで日暮れとなり、土砂崩れの迂回路を巡る内についに山道に迷ってしまいました。その五木の山々はまさに畏怖すべきものでした。張りつめた谷間の空気は物音ひとつしないのに、耳の奥でビンビンと鳴っているのです。「平家の墓」「子別峠」「出水」という標識を何度も見ている内に、私は後部座席で車酔いと疲労で寝込んでいました。三時間経ってようやく、人里の明かりを見た時、どっと安堵のため息を漏らしコンビニに駆け込んで人間らしさを取り戻しました。山は容易には闖入者を受け入れてはくれませんでした。
 よく「なぜ川辺川ダムについて書いたのか?」と聞かれます。分かりやすい理由はありません。先ほども書いたように私自身は静岡県生まれです。九州との接点は34歳までの会社務めの最後を博多の中洲で過ごした事くらいです。ところがそれから五年たって、とある写真雑誌でダム建設予定地に80歳を超えて今も一軒だけで自給自足の暮らしを送る尾方茂さんの写真を見た時に、突然、映写機が回りだしました。ですから「ダム」は「太平洋食堂」のように書こうという意思で調べて書いたというより、突然ある日、ドラマとなって現れ出たのです。そしてまた8年たった今ようやく分かったこと、それは過去に自分を産み育てた地縁血縁が、私にダムを書かせたのということ__宗助のモデルは五木村の尾形さんであり、私の伯父夫婦でもあります。喜寿を越した二人は老体に鞭打って稲作や茶園、畑を営み、遠方の私に農産物を送ってくれます。どうしようもない無産者である私は、何も恩返しできずに、盆暮れに息子たちを連れて挨拶に行くたび、「みんなに食べさせたくて作ってるだよ」と言われて縮こまります。この非効率な農村の本当の豊かさというものは、理解されないばかりか歪められ、価値さえも貶められ不当に扱われます。やがて我々の次の世代では、身近な土に育つ食物を栽培し食べて生きる事さえも困難な時代となるのでしょう。ダムで故郷を奪われた方々、放射能によって故郷に戻れない方々、その消えることのない痛みを忘れるということは、それだけで加害にも繋がると私は思います。しかしやはり人間は、忘れるのです。

 昨年、座・高円寺での「ダム」リーディングは、劇作家協会長・坂手氏をはじめ、たくさんの協会の方々にお世話になり実現となりました。今年の上演も新人戯曲賞受賞以来、「ダム」を忘れずにいて下さった皆様のご尽力によるものです。そして私の戯曲を立体化するという難工事を引き受けて下さる演出、俳優、スタッフの皆様にもお礼申し上げます。
 本日はご来場、ありがとうございました。

(「ダム」当日パンフより転載)