管野すがの眠る墓 ・・・ 嶽本 あゆ美
1月25日は、大逆事件の刑死者の追悼集会がありました。毎年、命日に近い土曜日に新宿区の正春寺にて、大逆事件の真実を明らかにする会の主催で行われています。この寺には、管野すがのお墓があります。去年もリポートしましたので、読んだ記憶がある方もいらっしゃるでしょうね。あれから一年、早いものです。去年は、「太平洋食堂」上演前で、ドキドキしながら門を潜り、必死でアピール、宣伝をしてました。
今年は、舞台成功のご報告です。毎年一回発行される「大逆事件ニュース」に舞台の制作過程などの詳細のコラムを載せさせて頂きました。舞台写真も満載です。この冊子は、会のほとんどを取り仕切っている、大岩川さんが責任編集されています。大岩川さん、もう五十年も受付をやってらっしゃいます。すごい博覧強記の女性です。
会には、日本全国から犠牲者の顕彰活動をされている方が集まり、活動報告をします。新宮からも、佐藤春夫記念館の辻本先生が上京されました。久々の邂逅でした。滋賀の清休寺の泉住職もお元気そうな姿をみせられました。みんなお元気そうです。といっても、若い世代はまだまだ少ないので、こうした取り組みが引き継がれて欲しいと思うのです。皆さん、ノンフィクションの分野での活動ですが、私のようなフィクションの世界の方も受け入れて下さいます。又、豊富な資料や毎年発見される新資料というのが魅力です。
ついでに私は、「南京」の宣伝もさせて頂きましたが、会に来ている方は皆さん、現在の状況に危機感を募らせています。そりゃそうですよ、皆さん、戦争体験者。いつか来た道が又、めぐって来ていると感じられてます。本当にアブナイ、アブナイ。
今、巷でNHKの会長がアホな事を言ってやり玉に一応上がっています。「公」というものが、いい大人の頭から無くなりつつあるのでしょう。村の宴会でしゃべるような事を公共放送でしゃべっちゃう、このヤバさも戦争していた時代のメディアに似て来ました。国内新聞のほとんどが、荒唐無稽な表現や、大本営発表に更にモリモリに盛った翼賛記事を書きまくり、ニュースとは真実であることを捻じ曲げたまま、規制事実をでっちあげる、そういう事は過去の事ではないように思えて来ます。
NHKの「足尾から来た女」が一部で話題です。あの地味なキャラの石川三四郎さんが出てくるし、前篇は平民社の堺夫婦、幸徳秋水、大杉栄まで出てきていたので、これからの展開が楽しみだったのです。しかし、まあ色々とあるのでしょうね。ばっさりと平民社ネタがカットになっていて非常に残念でした。もちろんドラマの中にたくさん社会状況を出してくるとドラマ自体が薄まるし、ヒロインを見たいのに情報が全面に出てくるのは好ましくないでしょう。舞台のように観たい人が見るわけない、公共のテレビのドラマに平民社の面々が登場する事はほとんどないので、ちょっと期待していました。しかしながら、明治の四〇年を超えたあたりからの国家権力の思想弾圧は、想像を絶するものがあるので、もう少し踏み込んでほしかったと個人的に思いました。想うのは、こういう風に思想弾圧の歴史が表に出ない事象が、NHKの自己規制として既にあるのではと危惧します。起きた事件を風化させていくという忘却への歯止めをかけようと、大逆事件の研究に関する人々は頑張ってます。ドラマは、足尾銅山の鉱毒被害と福島の原発の状況を重ねて描くことに成功していました。それは非常に意味のあることで、この現代は全く野蛮な時代に変わりつつあるのだと恐怖し身震いしながら久々にテレビなんか見てしまいました。「谷中一村を捨てて日本が救われることはないのだ」と言う田中正造の主張は、福島を捨てて東京の繁栄、日本の繁栄などないのだと言う事と全く同じなのです。つまり「もはや、日本は死んでいる。」
当時の検閲体制の中でも、夏目漱石は新聞小説「それから」で、「現代的滑稽」というギャグで平民社の幸徳秋水を取り巻く密偵達の監視状況を描写してこれを思い切り嗤いました。朝日新聞でも杉村楚人冠が、「幸徳秋水を襲う」というルポでその不条理状態を皮肉っています。こういうユーモアで国家体制を嗤う事が唯一の抵抗だったのでしょう。森鴎外の「食堂」には、昼飯の雑談という体で「近頃話題の社会主義とは?」についての解説を述べながらも単に知識を持っているだけで、一歩間違えば自分も大悪党にされかねないという恐ろしさを、ブラックコメディーのように描いています。そしてその文豪らのユーモアは、今日においても通じるセンスです。そんなセンスを今の現代メディアに期待するのですが、これも又、期待する私の見当違いかもしれません。
明治の人のギャグセンスは、江戸から東京に変わり、西洋文明がどばっと入ってきて養われたのではなく、江戸の文化の残り香のようにも思われます。我々の文明は、明治の近代化や文明開化によって、後退してしまったのでしょう。絶対の神格化やら、絶対の正しさというものがあるなどと、信じる事はやはり自分と自分の判断を捨て去ることなのです。
ところがそれが一番必要とされる場所があります。それは軍隊です。だから国民は軍事教練や徴兵制の中で、自分の判断を捨ててトップダウンの上官の命令を唯一無二の言葉として聞くようなものに、変えられるのでしょう。そういう集団によって遂行される戦争というものは、人間を捨て去る行為で恐ろしいものです。もうすぐ、「南京」が書きあがります。苦しい本ですが、人間と国家と戦争の不条理を通奏低音として鳴らしてみます。