再びの新宮②
松沢炭鉱で出会ったオバというのがぴったりの御婆さんは、炭鉱の入り口の住宅の前の石に腰をおろしていました。私たちがドヤドヤと二台の車で乗り付けるのを、オバは何しにきたんや?というように眺めていたのです。そこにうらぶれていて、空き地で9匹の猫が戯れていて、鉱山沿いの水路に沿って廃屋も多いので、なんだかちょっと不思議が漂っていたのです。
熊野歴史ガイドをしている栗林さんが、「おばあさん、ここに住んでるの?」と聞くと「わしはここで働いてた」というのです。昭和五年生まれのオバは、十代のころから男に交じって炭鉱で働き、そのあとは大阪の紡績に行ったと言いました。炭鉱時代は鉱には入らないまでも、ヤエン張ったり、積み下ろしとバリバリに力仕事したんだ、と教えてくれました。旦那さんは、鉱に入って働きやはり肺をやられて病気でなくなったということです。オバは「兄さん戦争で死んで気の毒なのに、墓もよう作らんでほらくってあったで、わしが墓を建てたったんや」と言いました。オバの両親は九州の炭鉱に居てそこから一家でこの松沢炭鉱に来たこと、ここは小さな炭鉱でこのあたりはたくさんの炭鉱があり、こんな山奥でも大勢の人で賑わっていたことなども。
本当に山奥なのです。二年前の大水害で川の壁は大きく崩れたままの箇所がいくつもあり、山のてっぺんから幹線道路の際まで岩石が雪崩落ちた形跡もまだまだ荒々しく残っていました。荒ぶる自然の中で人が蠢き、戦争でも産業でも無くてはならない動力源を生み出し続けた熊野山中の営みは、もはや草に覆われ山の中に溶け込み始めているのでした。
そこを離れ請川の成石兄弟の墓に向かい、二年ぶりに線香を手向けました。成石というバス停の名前に、平四郎や勘三郎を想起する人はどれほどいるのでしょうか。そこからほど近い熊野大社は明治22年の大水害で中州から流され、今の場所に移されたのですが、人間がオタオタと逃げ回るのを、どこかこの深い山の緑の影の中でじっと見ながらうすら笑っている何者かがいるような気もしました。
同行して下さった濱野さんは、大社の近くに御里があり、昔からよう遊んだわ~と裏道・近道を教えてくれたのです。そうやって神域と神秘な自然と、人里が溶け合う本宮の空は青いながらもどこかギリシャの群青に似た空でした。帰りの車の中でウトウトと気だるくなりながら、ここまで又、来られたのだ、本宮に詣でることができた、と私の中でゴールが向こうのほうに見えてきたのは確かです。
さて、来週、月曜日から稽古開始。水天ピットは白熱ですね。