上海とクララ、私と先生 | メメントCの世界

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上海と言えば、「上海バンスキング」!

というと同世代以上は、「ウエルカム 上海」を思い出して湧きたちます。昨年のチェーホフ公演で、人妻キーソチカを演じて頂いた、さつき里香さんは初代リリーさんで、今も変らぬプロポーションに天の配剤というか、不公平を感じたものですが・・・って、僻みにしか聞こえませんね。

 バンスキングの作者、斎藤憐さんは、私の戯曲セミナー時代の恩師でした。本当に、夢のような方に師事した私は、もういきなり舞い上がっていたのですが、舞い上がり過ぎて地に突き刺さるような落ち方をしました。まあ、ケチョンケチョンに毎回言われて、書けば書くほど、「嫌がらせか!」と嫌われました。そして、「もうお前のもんは読まん!具合が悪くなる。もう来るな!」とさえ言われ・・・・これは、悲哀ではなく、そう言われても仕方ない時代の私でした。何の客観性も無しにただ書き散らしていたわけです。斎藤先生は何でも誠実に深い所から見て下さいました。それは井上ひさしさんも同じです。あの両巨頭に罵倒されまくった私は幸せ者です。本当にあの罵声は財産なのです。



 十年前の「かつて東方に国ありき」の第一場は、珍しく斎藤先生に褒めて頂き、気をよくしてその先を書いたものの、なかなかまとまらなくて、二年掛って最後まで書きました。それが文化庁の創作奨励賞佳作に繋がり、現在の私が始まったのです。先生は何本か私の駄作に批評をくれて、私の本番は一度も観て頂くことはできませんでした。劇作家協会新人戯曲賞を頂いた「ダム」はようやく認めて頂いた作品です。でも、斎藤先生は「ダム」は認めても、私という作家は認めてくれませんでした。というか、「ダム」のようなものをもっと書け、何本でも、それでようやく作家なんだ、ということでしょうか。



 斎藤先生も堀田善衞が好きだと言っていました。それを聞いて小躍りした私は、堀田ネタでおしゃべりしたくて、更に疎まれました。「お前は文学部の女学生まがいのおしゃべりオバさんだ!」

斎藤戯曲の「隣の脱走兵」のネタは、堀田の「橋上幻像」と同じ、ベトナムから帰還したアメリカ兵が脱走する話です。多分、共通する視点を持っていたのだと思います。とことん嫌われ者の私でしたが、若くして亡くなったある制作の女性の偲ぶ会で久しぶりに会った時、懲りずに話しかけてしまったのです。先生は、ぽつりと賑やかな会場で一人テーブルに座って居ました。私の顔を覚えていたかどうか、定かではないのですが、私が亡くなった彼女に非常にお世話になったという話をしますと、「僕なんかは何のお返しもできなかった・・・・」と誠実な声で。


それが斎藤先生と会話した最後でした。その二年後の去年、先生はお亡くなりになってもう二度と罵声を浴びせても、公演を観ても頂けなくなったわけです。私ができる恩返しは書き続けることですが、天国の斎藤先生は「フン」と鼻で笑ってるんじゃないかと思います。去年までの私は、確かに心の中で、今に見ていろ!と思い続けていたようです。それで、去年の秋頃に「クララ」のアイデアを具体的にし始めたのです。上海の女スパイの話を書いてやろうと頭をひねっていました。蟷螂の斧ですかね。




直接、ご指導頂いたのは本当に1年に満たないのですが、あの時代があった事を本当に幸運だったと思い返すのです。


作曲家に師事することは同時代に生きなくても十分できます。だって、スコアがあるから。それを読み尽くせばその作者についての全てがそこにあるから。だから私は、斎藤戯曲を読み尽くすことで、いつでも仰ぐことができると思っています。出来の悪い弟子は、グルグルと回り道をしながら、上海をうろついています。さあクララさんは、お嬢さんを超えることができるか?という野望を抱いて、本格稽古開始です!