メメントC第二回公演「理由」の感想 ・・・ 角中 和夫
まず、リーディング公演というのが面白かったです。
ドラマを提出するのに、どこまで具体化してどこから想像に委ねるか、活字だけの台本から「アバター」のようにイメージを徹底的にリアリティで埋め尽くした作品まであるとき、このリーディングという形式は、いかにもあやふやでいとおしささえ感じさせます。
第一部が素晴らしい。さりげない親子の日常会話から徐々に過去から現在が浮き上がってくるのが刺激的でした。ちゃぶ台の前に座っているような、昭和の雰囲気があります。たしかに「臨場」は平成ですが、斉藤由貴の「夢の中へ」などドップリ昭和です。まあ昭和も私のようにディープになりますと、「夢の中へ」は栗田ひろみなのですが。
この感じ、「阿修羅のごとく」など連想しますが、私には「さぼてん」というのがいちばんピッタリします。
このドラマ、森繁久弥主演の家族の崩壊をあつかったもので、TBSの夜8時から1時間の連続ドラマなのですが、驚くことに、前半の30分は話がいっさい進まないで、前回のおさらいと現在がどうなっているかをおばさんたちが井戸端会議ふうに話すだけなのです。能の間狂言にヒントを得ているのではないかと推測していますが、このあたりのゆったりした呼吸が似ている気がします。
さて親子の会話から、この家族が皆、何かに囚われていて、非常に狭い空間にいることが分かってきます。唯一の社会との接点は前田であり、はじめはのどかであるかのようだった社会が実は彼女らにどういう存在であったのかが現れてくるところなど圧倒的であります。
井出みな子さんがすばらしい。まるでドラマの中で自由に呼吸しているかのような自然さが素敵です。
そして声、枯れているようだけれど、伸びがあって素直に言葉が心に入ってくる、まさに口跡が美しい。
こういう声で覚えているのは、市川中車さん、中村伸郎さん、原田芳雄さん、杉村春子さん、浪花千栄子さんあたりですか。
秋元紀子さんは、柔らかくて、ちょっと声質が高くて、明るい。いい対照になっていると思います。
観劇後、萩原朔美さんと、秋元紀子さんたちと、お話をしたのですが、そこで、第ニ部以降はどうもスッキリしない、つじつまが合わない、ということになったとき、萩原さんが、「つじつま合わせを要求するのは観客の傲慢だ」と言いはじめて、さすがに元、天井桟敷は言い方が挑発的だなと感心した次第です。敷衍すると、つじつま合わせを要求する観客と、不合理を提出する作者の間に作品が成立することになるのですが。これは収まりが良すぎて違っています。
一般につじつまを合わせているのは作家のほうです。「宮本武蔵」の巌流島の巻は決闘以外はつじつま合わせだけです。「南総里見八犬伝」では壮大なつじつま合わせがあって、膨大な登場人物がしかるべきところに収まります。白土三平は「忍者旋風」で多彩な人物を、少しずつ消していって最後一対一の決闘に持ち込みます。
また観客はつじつまなど合わなくても、感激できるものです。
ヒッチコックの「北北西に針路をとれ」ではマクガフィンをめぐっての争いのはずなのに、途中でそんなことはどうでもよくなってしまいます。
二階堂黎人の「人狼城の惨劇」という推理小説は全4巻の大長編で、謎は解かれるのですが、誰も捕まらなくて、始めと状況は全く変わらないという不思議な小説ですが、その謎が壮大なので十分満足できます。
さて寄る年波、集中力が落ちているようで、聞き逃して変なことを言っているかもしれません。ご容赦ください。
この劇の謎として、①姉はどこへ行ったのか。消去法で考えるとキツネ目の先生の所に行ったのですかね。 ②妹はなぜ母を受け入れることにしたのか ③母はなぜ古い家に固執し、またそこから離れることにしたのか。
こう整理してみると、この登場人物たちは、何気なく、大変な行動を起こしてしまう傾向にあるようです。
そういう狙いなのでしょうか。
推理小説とは、提示された謎が解けていくカタルシスを味わうものだとあります。
もちろん劇は、生身の生活から時間と空間を切り取って、まとまりをつけて提示するものですが、西洋庭園の箱庭のように全部明らかにして小さくまとめてしまっては何の面白みも無い。日本庭園のように、奥行きと広がりを感じるように、無造作のようでまとまっているという風でいてほしいと思います。
この劇に理由を説明する必要も、解決をつける必要もないのですが、第一部で提示された謎や彼女らのトラウマがどうなったのかについてカタルシスを感じさせてほしい気がします。
結局彼女たちは、現状を受け入れるという行為によって解放されるわけですが、その辺りの経緯がはっきりしない。そのため、最後の母親の解放感にいまいち乗れないのです。