猫のいる最終稽古 | メメントCの世界

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猫のいる最終稽古 ・・・ 嶽本 あゆ美


 あっという間に稽古最終日です。
 通し稽古が始まると、空気が一気に集束していきます。そこにあるのは役者の台詞と最小限度の音楽ですが、よく、空間が飛んでいくような錯覚に陥ります。何度通しても、同じ事は二度とは起きない不思議な生き物、それがリーディングというか、「理由」です。

 作家が言うのも変というか、厚かましいのですが、自分で書いたことを忘れてしまい、この人たちは勝手にせりふをしゃべっているのではないか?という気持ちにさえなってしまうのです。全く作家冥利につきるのですが、よく言う人物が勝手に歩き出す瞬間ですね。文字が生き物であるというのは、脚本に限ったことではないのですが、宿る魂を得ることでしか、脚本は生きられません。


 時として自分の作業が、裏紙製造機もしくはプリンターではないかと疑うことも多々あるのですが、こうして自分の作品をリーディングしてくれる上演団体を得ると、なるほど聞くと読むとは大違いです。読まれることで、台本は試されるわけです。私の目指すものは多分に古臭いのかもしれませんが、「語られて伝わること」です。語らなくても十分伝わることのほうが多い気もしますが、それをあえて口に出さざるを得ないというドラマに惹かれます。


 何だか、随分自己弁護が続いていますが、空気を読む、顔色を伺うというスキルが苦手なせいだと思います。学生時代は、あからさまに誰もが相手を批評し、ネガティブ・ワードを口に出してしまうような環境でした。「あんた、下手じゃないの?」「センスないよ、その歌」今ならKYの極致でしょうが、まあ結構、誰もが言うのも言われるのも平気でしたね。悔しかったら、実力で見返すしかないわけで、何人徒党を組もうが仲間がいようが、才能のある人間一人には敵わないわけです。結局のところ、自分が天才でも何ものでもないという事を厭でも思い知らされ、上を見れば目のくらむような序列から抜け出すことができないという諦めを生きていました。やめればいい、そう、厭ならいやならやめればいいのです。誰も私に何かしろとは頼んでいない。

 何度も挫折を味わった挙句、30も大分過ぎて、ものを書き始めました。それは自分を甘やかすにはもってこいでした。それにものを書くというのは、いくらでも書き直せるわけなので、終わらせるのは自分の意思だけです。まだ終わっていない物語、それがおもしろいのかつまらないのか、終わらせていなければ、挽回の可能性があるし、ジャッジできない。話を終わらせる事はある種の権力です。この話の創造主は私なのだと、暴力的に終わらせてみる、ところが時々、拒否されますね。着地点が違うのだと、お前はアホかと文字が言う。

「理由」の第三部を書き終えた時、終わらせることができたのかどうか、不安で仕方がなかった。ただ、リーディングを続ける内に物語の終わりというものが、読み手に委ねることができるということが分かりました。この「理由」場合、井出さんなんですが、彼女がどこへ向かっていくのか、彼女にしか決められない。本当にふわりふわりと、どこまでも飛んで行ってしまう井出さん。

 そうやって、私の書いたものが彼女に成る時、ようやく何がしたかったのか分かる時があります。読む人によっては、とんでもなくひどいののしりも、カラッと吹く風にのせてしまう井出さん。

 来週、月曜、火曜にコレドでその風に吹かれてみませんか?待ってます。


*稽古場風景

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