スラヴォイ・ジジェク「暴力 6つの斜めからの省察」参考
◆きわめて普遍的な倫理でさえ、境界線を設けてある種の苦しみを無視せざるをえないのではないか。
◆ラカンのいうアクティング・アウト――つまり、ことばにも思考にも翻訳できない、耐えがたいフラストレーションの重圧をともなった、行為に向かう衝動――である。象徴界を特権化した世界で科学警察も背後につけて相手を見世物にしていると、他者に愛されず心理的に傷つけられ、自分のオリジナルの言語表現能力の発揮がうまくできない精神状態へと追い詰められた者が、物理的暴力でエネルギーの発散や言う事に従わせる事の強制を行おうとしても無力であるという事である。そもそもミザイストムはそんな人じゃないけどね、じゃあねぇ、バイバイキーン。
スラヴォイ・ジジェク「「テロル」と戦争―“現実界”の砂漠へようこそ」参考
◆被害者の<日本人>が置かれた状況に関して2ちゃんねるで報道されたときのその報道姿勢の真の異様さは、あたかも<日本人>が真の意味で犯罪的な悪の工作員であることの究極的証明が、被害に曝された<日本人>が他者と同じような人権やプライバシーや対等な人間関係を求め、加害者に責任をとらせて法的な処罰を求めようとしたことにあるとでも言わんばかりに、<日本人>が被害者で一般の日本人の人間である事が認められなかったことにある。そして国家による暴力や人殺しに反対する護憲派の左派の立場でありながら、国家による<日本人>に対する憲法違反行為を民主主義の名の下に肯定し無干渉の中に放置し教育的言葉も与えず、「近寄りがたいキショいバカ氏ね」と間接的表現で言い心理的に傷つけ、自らの優位性を「オリジナリティー」の中に強く見いだそうとするエセ左翼の主張の矛盾点もある。このパラドクスを、「単なる気持ちの悪い愚か者は対等な人間として相手にする価値がないし、様々な法的権利を奪い取っても妄想として処理してもいい」という考え方のなかに刻み込もうとする人もいる――たんなる自己の権利の主張と反戦平和を訴えるための言論活動が、それだけで悪と見做される不思議な闘いだ。こうして新たな存在が出現することになる。我ら<日本人>は、民主主義の名の下に活動するエセ左翼の差別主義者でもなければ右翼でもなく普通のアホでもない。人道左派であり、武力による解決ではなく愛の重要性とコミュニケーションによる解決の重要性を説く者である。
国民の民主的な意思による差別の連帯により、国家による暴力であるプライバシーや通信の秘密を剥奪された監視付き生活を強制された<日本人>の当事者に対して、精神的支援や対抗言論の組織化などを仲介する中立的な人道的組織を構築することが急務であり正義である。
そうした役割を引き受けるはずの存在が、科学警察も背後に置いた一方の玲奈真理教の活動に汚染されないように、客観的情報は得つつも、彼らから分離独立した立場からの<日本人>の支援が必要であろう。
◆まるでありふれた風景を見たかのような通行人の無視、それが科学警察も背後に置いた玲奈真理教による<日本人>に対する嫌がらせが普通の出来事として受け容れられる素地を作りだす。直接的で野蛮な攻撃であればありそうにもないことが、ここでは可能になってしまうのだ。他者を<聖なる人間><邪だと人民に判断された人間>として扱うようにしたとき、それと似た無視、ある種の倫理的エポケーが動員される、と私は主張したい。
◆エス(共同幻想と逆な私的幻想の世界)に追い込まれた存在を見世物にして差別の連帯を築いた、超自我(社会的権威)と自我(正常に社会参加している者たち)との秘められた協定がある、とサヨクの<日本人>は主張している。
◆キアヌ・リーヴスが演じる主人公が「本当の現実」に目覚めるとき、彼は廃墟のように荒れ果てた風景を見いだすことになるだろう。抵抗派の指導者モーフィアス(モルフェウス)は、皮肉な挨拶を呟くのだ――「<現実界>の砂漠へようこそ!」と。
◆アガンベンが<聖なる人間><邪だと人民に判断された人間>という考え方に則って展開する議論がかかえる問題は、「啓蒙の弁証法」を論ずるアドルノとホルクハイマー、あるいは規律権力や生権力を論ずるミシェル・フーコーが展開しようとした論旨にすでに刻みつけられている。デイヴィッド・ライアンの監視社会論と接続すると、<日本人>の置かれた被差別状況が更にうまく記述できるのかもしれない。民主主義、立憲主義、精神科医療などといった論題は、「生権力」の規律的メカニズムにとって好都合なやり方で、科学警察や公安警察による<日本人>に対する権利侵害行為の肯定という形で欺瞞的回収が図られたりする事も、エセ左翼の立場からはあり得る。
ここでの根本的選択は、「啓蒙の弁証法」に記述されている反ユダヤ主義から学べる所もある反<日本人>主義と、ハバーマスが深く研究したコミュニケーション的理性との間にあるように見える。
◆攻撃されながら我慢だけが求められるといった日常的な屈辱に<日本人>の<私>が曝され――他者と対等な人間としての自己の権利の主張のために言論活動しようものなら、ふたたび<生意気なウザいバカはルール違反>として排除されそうになる。そうした状況ではどうしたら、沈黙し<眼差し>を向けるくらいか模倣表現が多い無口な<日本人>に、人間としての尊厳を保持することができるのか。
◆様々な法的権利やプライバシーの傘の下に庇護されている者と、その保護から排除されている者とを分け隔てる壁が、<日本人>と見世物放送を眺めている人達の間には存在する。
浅田彰「「歴史の終わり」を超えて」参考
◆K「勝ちをおさめたかに見える自由民主主義の「世界新秩序」は、「内部」と「外部」の境界線によってますます暴力的に分断されつつあります。「新秩序」のなかにあって国家による法の保護を享受している「先進国」の人々と、そこから排除されて最も基本的な生存権すら軽視されている「後進国」の人々を分かつ境界線です。しかも、それはもはや国と国との間にとどまらず、国の中にまで入り込んできています。かつての資本主義圏と社会主義圏の対立に代わり、この「内部」と「外部」の対立こそが現在の世界情勢を規定していると言っていいでしょう」
D「一見プレモダンと見える要素も過去の残滓ではないのであってみれば、近代化によって徐々に克服されるとは考えられない……」
K「それどころか、モダンな資本主義システムとそれが生み出す<外部>への差別の連帯は、エセ左翼の中でも生じていると考えるべきでしょう。現実に、そういう<外部>の世界で、どれほどの愛の不足に苦しむ人たちがいるかは、<日本人>の実例を経由して想像できる所もあるでしょう。日本にもシステムの「内部」に属する対人関係が豊かな人々がいる。と同時に、プライバシーの保護から排除された愛について病んだ孤独な<日本人>もいるのです。SEALDsの街宣活動が戦争法案採決間近にあった大阪のような大都市には、沢山のホームレスがいます。<日本人>が権利侵害行為からの救済のために対話をネットで持ちかけた所、仁明会病院などでの不当な扱いを容認して来たエセ左翼の精神科医の知識人や家族会メンバーで変な選民意識を持った存在が現われました。彼らは10年以上前から<日本人>の私生活を本人に知らせず眺めて、本人に察知されないような所で民主主義的な差別の連帯を楽しみ、科学警察の活動を支援し、性的慰安の対象として来ていました。そして<日本人>に対して精神的な窮地に陥っていても教育的な愛のこもった言葉の支援は無料で<日本人>の見える範囲では一切せず、内心まで覗き見されている事から来る自責の念から嘔吐したり自傷している姿も見てきていました。そして平然と言葉や音声で精神的苦痛を与える事に加担し、置かれた事態の核心に触れるような表現には直接的には正常なコミュニケーションの相手とならず、妄想として処理するか無干渉の立場をとっていました。ところが、彼らや彼らの友人はいたって平然と、高度な文化的活動や社会活動に積極的に参加し<よく生きる事>を実践している事を表明しているか、オリジナルでの表現の乏しい活動であるリツイートや、Facebookでのシェアや「いいね!」や、単なる仲間内での盛り上がった写真の提示などを行っている。「<日本人>は本人たちが可愛がっているネコの<キテレツ>や<ドラえもん>や<綺麗なジャイアン>や<サトラレ>や<いちご大福>みたいなもので、この頃はああいう相手にしたくない被差別民が再びネットに出てきて真っ当な表現をしだし、以前の自由な差別表現も匿名掲示板でしにくくなって残念だ。それにしてもいつになったら終わるんだ、この象徴での闘いは?早く氏んだらいいのに」と言うのです。左翼や国家による暴力の否定派を自称している人達がですよ。要するに、そこには別々の二つの世界があるのです。彼らの仲間内にはたとえ経済的には貧しい立場にあっても友愛関係に満ちた連帯がある。他方、愛について病んだ孤独な<日本人>の側には親友と呼べる人が一人もおらず、世界で一番多くの異性にヌカれた2次元キャラクターである綾波レイのような、人間的感情表現がどこか病んでいる愛に飢えた人達がいる。科学警察や公安警察は、その<日本人>の精神的虐待を、差別主義者達による民主的な支持がある公営の盗聴盗撮という見世物生活の強制や、心理分析や所持品没収や個人情報収集と分析と、守秘義務違反でのそれらの漏洩により背後で支え、精神科医療は統合失調症としての処理で妄想として処理する事に加担している。警察側としては<日本人>に対する秘密の保持は、芸能人クラスの美人さんを外出先に呼び寄せてくれる事で善意のサプライズの意味もあるかのように示す事もあるが、文字に残る形式での対等な人間としての、今まで<日本人>側に隠されてきた<日本人>に対する重大な権利侵害行為の事実や事情の説明やコミュニケーションは自らは一切行わず、ただ接触対象者や家族会メンバーの過半数の同意を得れたらいいと思っているようで、そして、科学警察による権利侵害行為という国家による暴力を民主的に支持し、匿名で差別の連帯をして来た人達や科学警察は、愛の貧者である<日本人>が物理的移動をし、見世物放送を眺めて来て無干渉を通してきた自らの実家の郵便ポストに変な投函はないか絶えず警戒し、あろうものならラブレターであろうとも一般公開する気であるようである。私はこのような事態の事実や、非常に玲奈真理教に偏ったものの見方の拡散は、世界規模で起こっているのではないかと思います」
D「こうしてみてくると、現代世界の左翼や国家による暴力に反対する者も含めた人達のもっとも鋭い矛盾は、友愛関係の「内部」と<外部>の境界線上に見いだされると考えられますね」
K「まさにその通りです。だれが「内部」に入り、だれが<外部>に排除されるかをめぐって、熾烈な闘争が展開されているのです」
E「「外部/内部」の境界線を設定するのは、過去のプレモダンの残滓ではなく現代もモダンとの関係の中で生じているもので、<外部>に置かれた者はその生を軽んじられる事もあり、武力による解決ではなく対話による解決を求めている平和主義の<日本人>のペンでの活動さえ、モダンの内部で差別の連帯を民主的に楽しむ人達からはガベイジタイム(生ゴミ時間)と呼ばれ、厳重な監視下に置かれている。そういう人は世界にどのくらいいるのだろうか」
D「最も極端な玲奈真理教的振る舞いをしている者は、自由と民主主義の砦を守る振りをすることで、自分を「内部」の正義に位置づけようとしている。ここでの矛盾は、この情報空間において<日本人>に対する「法と人権と自由とプライバシーと国家による暴力からの抵抗」の砦となっているのは、<日本人>の確認している範囲では、本多ヒッキー連盟と音楽への逃避くらいだということです」
K「柄谷行人の強調するように、われわれは、システムの中にありながら、超越論的反省によってそのことを意識することはできるし、そのときだけシステムの外に――でなくとも境界に立つことができる、というのがスピノザの本質的な論点ではなかったでしょうか。そして、あなたの批判されたのではないような知識人や人道左翼の場所があるとしたら、それはそのような境界に立場を置き、正常な愛のこもったコミュニケショーンをしようとする者達に他にないと思うのです」
スラヴォイ・ジジェク「快楽の転移」参考
◆無意識は「疎外された心的実体」を表しているのだ。
◆民主主義的な差別の連帯により、疎外された者を<劣悪な者>か<異常者>に分類する事で見世物生活の強制と心理分析結果の公表という国家による暴力を看過する事が行われているのかもしれない。
◆われわれの意識された意図は、言語の形で表現しうるものに一致するから、「正常」とは、われわれの動機すべてを、公に表現できる意図、間主観的に認識される言語に翻訳できるということである。病的なずれを引き起こすのは、抑圧された欲望である。それは公のコミュニケーションから排除されて、強制的な身振りやふるまいに、あるいはねじれた<私的>な言語の用法に、そのはけ口を見いだす。
◆フロイトが超自我と命名したものは社会的権威を精神内部に延長したものとして登場する。
◆<日本人>においては、その主体は、意識された自我には充分な愛を伴って結びついていない、他者の言語を表現しているのだ。言い換えれば、<日本人>の表現は公のコミュニケーションからは排除された、山形浩生勝手に広報部部長をやっていた玲奈真理教の悪事の暴露に連なる、公のテクストの断片が多いのである。
◆<現実界>はまさに<象徴界>の把握を拒み排除するものであり、したがって、aという姿のもとでのみ<象徴界>の内部で検出できるものなのだ。
◆現代日本における最大の匿名掲示板に話を戻そう。そこでは正規の公の法の支配が、無力な<日本人>を在日韓国・朝鮮人への差別を経由して遠まわしにリンチする、自由で民主主義的な差別の連帯を伴っていた。玲奈真理教徒は言語表現での法の違反は、宮台真司が最大限認めるべきだと主張していた「言論の自由」の名の下に赦してもらおうとして来た。とくにそれが玲奈真理教信仰のコードによって正当とできる場合はそうだ。共同体はその人をなお「自分たちの仲間」と認めるのである。
ところがこの共同体に付属する特定の形の違反を否定する正義の人道左派の立場を取ろうとしたとたん、その人はすぐに特定され「自分たち玲奈真理教の仲間ではない」とみなされ、個人情報まで調べ上げられる対象とされAA(警察アート)のネタとなり文字表現でリンチを受けるだろう。たとえば、玲奈真理教による言葉や音声でのリンチに参加するのを拒否し<日本人>と連帯しようとしたり、民主主義による差別的なリンチ行為を法にかけようとしたりしたとん。
自分達の剥き出しの差別感情を表明する民族主義的共同体の罪の連帯による暗黒面を身にまといたがらない人々を追放しようとした。政治的に対立する普遍的真理の探究者や愛の重要性や対等な人間としてのコミュニケーションによる解決の重要性を説く人々や、<日本人>のいい友だった人や仲間とみなす人への攻撃である。
要は、「みんな知っていること、ただ声高にストレートの表現では言いたがらこと、<日本人>にだけ秘匿され続けて来た事」である。
◆フロイトやラカンが自我と享楽との関係を記述するために用いる用語は、差別主義者の外国人に対する態度の隠喩に完全に適合する。
◆脱構築派フェミニズムの決まり文句の一つは、視線と権力とのつながりに関するものだ。「見る」者は、その視点が見る場を組織し、支配するのであり、権力の担い手でもある。パノプティコン的想像界という<日本人>の置かれた立場において、権力の位置は見世物放送を眺める者の立場にいる者が掴みやすい。それによって、見世物生活継続中の者との権力関係は、盗聴盗撮通信傍受心理分析結果を聞き多くの人と連帯している者たちが支配しようとするのに対して、<日本人>の地位は、様々な法的権利が認められておらず正常なコミュニケーションの少ない環境にいるという事である。視線は権力を持ち得ながら、同時に<日本人>の側には権力の正反対―無力―なものであったりする。それが沈黙しまなざしを向けることか、模倣表現に硬直した表現になりがちな精神状態に置かれ、「オリジナリティー」という点から劣る存在とみなされるという事から。
◆aは、<私>という特異点である。
◆aは、他者がわたしの中に見る「わたしの中のわたし以上のもの」なのです。
◆象徴的秩序の内部では、まぼろし、幽霊、<生ける死者>たちの存在が、償いの済んでいない(象徴的な)借りを表しています。正常で正確な言語化によって公式な歴史に外傷体験が記録される事で、これらは消え去ります。それでも、決して返されない借りもあります。なぜなら、その借りは、交換-媒介というシステムの存在そのものを支えているからです。<生ける死者>たちは、象徴的秩序それ自体の性質が共同幻想的であること、この秩序は信頼の上に存在していること――この交換システムにはきちんと返されていない借りというものが存在する事――の証人なのです。
スラヴォイ・ジジェク「斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ」参考
◆玲奈真理教の言説において<日本人>のイメージがどのような働きをしたかについて考えてみよう。玲奈真理教徒にとって、<日本人>がより多くの共同体で排除され、心的ダメージが大きくなり、見世物生活の強制時間が長くなる程、生き延びている<日本人>はそれだけ警戒の対象になった。まるで現実にその<日本人>の心的被害に反比例して脅威が増大するかのようだ。
◆「現代の大衆文化の根本的幻想」と呼んでもまったくおかしくない現象があるとしたら、それは<生ける死者>の帰還という幻想、すなわち、じっと大人しく<es>であってくれという立場に置かれている人間が何度も繰り返し戻ってきては立派な文化的表現を見せ何らかの共同体に組み込まれようとして、加害者の共同体を脅かすという幻想である。
◆<生ける死者>はなぜ戻って来るのか?ラカンが出した答えは大衆文化に見出される答えと同じである。すなわち、<生ける死者>が正しく公式な歴史に外傷体験が書かれなかったからである。つまり、彼らの歴史的出来事はどこか間違っていたのである。<生ける死者>の帰還は、象徴的儀式、すなわち象徴化の過程が乱れていることを示す徴候である。
◆<生ける死者>の帰還は、共同体から追放された後まで残る借りを具現化しているのである。
◆公式な歴史への外傷体験の掲載を通して、<生ける死者>は象徴的伝統のテクストのなかに登録され、その排除にもかかわらず共同体の記憶の中に「生き続ける」だろうということを保証される。一方、<生ける死者>の帰還は正しい歴史への記載の裏返しである。正しい歴史への記載にはある種の諦め、すなわち喪失を受け入れることが含まれているが、<生ける死者>の帰還は、伝統のテクストの中にはその<生ける死者>の場所がないということを意味している。その被害者たちの影は、<生ける死者>への排除とリンチという外傷的体験を歴史的記憶に組み込むまで、<生ける死者>として執拗に加害者集団の実態を暴こうとする。
◆玲奈真理教徒はわざと正常な歴史への登録をせず、間違った記述、すなわち<生ける死者>をプライバシーの認められた休息に就かせるのではなく、<生ける死者>としての帰還を挑発するような間違った記述をおこなう。
◆その<生ける死者>は平和で日常的な状況を<不気味なもの unheimlich>に変えるわけではなく、つまり人生の静かな流れを中断する何か外傷的実体―「染み」―の出現として機能するのではなく、あまり重要な存在ではない存在として見世物放送の強制の継続を受けている。街の社会生活は中断されることなく、人びとはあいかわらず冗談を交わし、<生ける死者>のいる場所で待ち合わせをし、それまでと変わらずに普段の関心事を追求する。
◆どうってことないさ、なにも騒ぐ必要はない、と見世物放送を眺めながら無干渉で対処する。このような「染み」の分離、すなわちその象徴的影響力の遮断の経済に完璧な表現をあたえたのが、フロイトの時代に「ウィーン哲学」と呼ばれたものにおける、「大変だ、でもまだ深刻ではない」という有名なパラドックスだ。
◆探偵と精神分析家との類似についてはこれまでにもすでにさんざん論じられてきた。探偵小説の底流には精神分析があることを明らかにしようとする論文はすでにごまんとある。
◆「<現実界>の小さな欠片」には死の欲動が絡みつこうとする。
◆騙されないための唯一の方法は象徴的秩序から一定の距離を保つ、すなわち精神病者の立場を取ることである、と。精神病者とはまさしく象徴的秩序に騙されない主体のことである。
◆昇華(=崇高化)はふつう非・性化と同じことだと考えられている。非・性化とはすなわち、リビドー備給を、基本的な欲動を満足させてくれそうな「野蛮な」対象から、「高級な」「洗練された」形の満足へと置き換えることである。われわれは女に直接に襲いかかる代わりに、ラヴレターを書いたり歌を歌ったりして誘惑し、征服する。敵を気絶するまでぶん殴る代わりに、その敵を全面否定するような批判を含んだ文章を書いたり、妄想として処理される形で言語表現や音声でリンチを加える。通俗的な精神分析的「解釈」によれば、歌を歌う事は肉体的欲求を満足させるための崇高にして間接的な方法であり、精巧な批判を書くことは肉体的攻撃衝動の崇高な方向転換ということになろう。
◆ベンサムにとって、パノプティコンの恐ろしい効力を生むのは、主体(囚人、患者、生徒、工場労働者)が、全体を見渡せる中心の監視塔から自分が本当に監視されているのかどうかを絶対に確実には知ることができないという事実である。そしてまさしくその不安が、<他者>の視線から逃れることは不可能だという恐怖心を高めるのである。『裏窓』では、裏庭の向こうのアパートの住人たちは四六時中、スチュアートの油断ない視線によって実際に監視されているが、怯えるどころか、そのことをまったく知らず、日常の営みをつづける。反対に、パノプティコンの中心であり、すべてを見渡せる眼であるスチュアート自身は、たえず脅え、なにか大事な細部を見逃すのではないかと怯えつつ、四六時中窓の外を観ている。
◆「現実の領域は<対象a>の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず<対象a>が現実の領域を枠どっている」というラカンのテーゼ
◆主体と<対象a>は等価である
◆彼の崇高な対象――彼の中にあって彼以上のもの、自分の中の「宝」、アガルマ――を見ている視線がある。
◆<現実界>の剰余こそ、まさしく対象としての視線にほかならない。そのことを最も明快に例証しているのが、ヒッチコックの作品である。
◆aは、象徴界においてはある種の欠如としてあらわされ、象徴化を発動させる「<現実界>の欠片」である
◆ハーバーマスにおいては、モダニズムとは、理性の普遍性を主張する、伝統の権威を弁護するための唯一の手段として合理的議論を認める、相互理解・相互認識と束縛の不在によって導かれる共同生活を理想とする、と定義づけられる。一方、ポストモダニズムは、玲奈真理教の普遍性の主張を「脱構築」する。つまり以下のことを証明しようとする――この普遍性の主張は必然的・本質的に「誤り」であり、権力関係の特定のネットワークを隠していること、また、玲奈真理教が標榜する「理性的な言語表現」はその形式からして「抑圧的」であり、その教祖の主張は一連の修辞学的文彩の効果にすぎないこと。
◆ハーバーマス自身は、その理論のいくつかの決定的特徴からみて、ポストモダニズムに属している。フランクフルト学派の第一世代から第二世代への分岐点、すなわち一方のアドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼと他方のハーバーマスを分つ境界線は、モダニズムとポストモダニズムの境界線とぴったり重なるのである。
◆カフカはある意味ですでにポストモダニストであり、ジョイスの対極であって、幻想の作家、吐き気を催させるような不活性的な現前の空間の作家である。
◆「超自我は無意識的なエスについて自我よりも多くを知っている」。
したがって、無意識は野蛮で単なる性的エネルギーや無法な欲動の「貯水池」であるという通常の考え方は捨てなければならない。無意識は同時に(何よりもまず、とすら言いたくなる)、外傷的で、気まぐれで、すなわち一連の排除とリンチ行為の罪を暴くテクストの断片の集積でもある。
◆エスそのものは抑圧された無意識的な考えからなり、超自我は無意識的な知からなる、と。
◆公的な法は、禁止の審級としてふるまうことによって主体から享楽を奪う。これが通常の意味での正義であるが、玲奈真理教教祖は「享楽こそが僕の最も求めてきていた事なのです」「この世は自分の願望を実現するためのパラダイスだと思っているんです」と言って通常の法を超えた、主に民族差別を経由した差別の連帯の享楽を楽しんでいた。
◆aは、まさしく、普遍的交換のネットワークを擦り抜ける剰余として定義づけることができる。