◆愛の道理
他者に愛されたければ他者を愛さなければならない、他者を愛するにはまずおのれ自身を愛さなければならない、――これが賢者の教えです。
自分を愛し他者を愛する者は光のなかにとどまり、その心に他者の愛が与えられるだろう。
自分を愛さず自分を否定する他者までも愛する者は、その心の哀しみの深さを意識レベルでは自覚していない。
自分を愛さず自分を肯定してくれる他者までも愛さない者は、自分の快適な生存と反対のものを本質として意識しており、したがって自分が卑小な存在だと感じている。
自分と友を愛し灰人を憎む者は、灰人を正確な情報の届かない闇の中に突き放し闇の中を歩ませて、闇に目をくらまされた灰人に正しい道を示そうとしないだろう。
灰人を誤った道に歩ませたり、疎外された環境に閉じ込めても、興味がないし妄想だとし、彼らは助けの手を差し伸べなかったのだろう。
灰人に悪意を注いで、自己憎悪の暴力へと突き放し、灰人を罰しようとするだろう。
自らの魅力も磨かず、頼るべき友もおらず、その心を愛から遠ざける者は、疎外された環境に置かれることもあるだろう。
灰人は荒野のおおかみのように、よい者が来てもその方々に話しかけず、人気のない森や砂漠といった心象風景に住んでいる。
道というものは不毛の土地や石の多いやせ地や砂漠といったものを避けて通るものなのです。道というものは、人間の欲望のままに、泉から泉へと行くものなのです。
とにかくは愛をみずからにまといましょう。すべてのよいことは愛から生まれているのだから。
人は自分自身を健全に愛することで他者を健全に愛することができ、そうすれば幸せが訪れることもあります。
自分自身に対する愛の足りない自己否定的な人は、自己に対して仇敵に対するようにふるまう。そこを配慮の足りない傲慢な他者につけ入れられたら、滅びの方へと誘導されることもあるだろう。
愛を見いだす者は命をみいだし 愛の道理に喜び迎えていただくことができる。
愛を見失う者は滅びの方へと誘導されかねない。愛の道理に背く者はタナトスに支配された者。
本当の友達とは愛で結ばれています。
もし二人のあいだに愛情に裏づけされた真の友情があるならば、決して連帯を破壊しようなどという気持ちにはならないのです。
もし友達が酷い目にあうとしたら、その人を助けるために活動するはずです。
愛とはその時々の問いかけに答えていこうとする意欲のこと。
愛のあるところに義務的関わりあいは存在しません。
愛とは人間的コミュニケーションをして誠実に対応し真実を伝えること。
愛とは相手の心身の苦しみを抜き解放しようと行動を起こすこと。
愛とは相手の成長を願い成長をうながす行動をとること。
愛とは相手に敬意を払い尊重すること。
愛とは攻撃性や自死へ向かうエネルギーを中和する力のこと。
愛とは人を助けようとする力のこと。
愛とは家族から始まるものです。
愛とは人を結びつける力のこと。
愛とは他者と絆を持とうとし保とうとする意欲のこと。
愛の反対は無関心というより無干渉ではないでしょうか。
愛の反対は正常に関わり合いにならないことではないでしょうか。
愛し合い尊敬し合うことのない共同体や社会は存続していくことはできません。
愛とは関連する言葉で私が簡単に涙を流してしまう言葉です。
旧約聖書「箴言8:10-21」改
銀よりもむしろ、愛の諭しを受け入れ 精選された金よりも、知識を受け入れよ。
知恵は真珠にまさり どのような財宝も比べることはできない。
愛の道理は知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。
愛の道理を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道 暴言をはく口を、愛の神に従う者は憎む。
愛の道理は勧告し、成功させる。愛は見分ける力であり、威力をもつ。
愛の道理によって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。
君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、愛の道理によって治める
愛の道理を愛する人は愛の神を愛し、愛を捜し求める人は愛の神を見いだす。
愛の道理のもとには富と名誉があり、すぐれた財産と慈善もある。
愛の道理の与える実りは、どのような金、純金にもまさり、愛の道理のもたらす収穫は、精選された銀にまさる。
慈善の道を愛の神に従う者は歩き、正義の道を愛の神に従う者は進む。
愛の道理を愛する人は嗣業を得る。愛の道理は彼らの倉を満たす。
中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」改
887:偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断片的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
888:反対者を愚者であると見なすとともに、自己を「真理に達した人」であるという。かれはみずから自分を「真理に達した人」であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
917:内的にも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
973:他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ときに愛の重要性を説く人に対するすさんだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくない言葉を発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
分別を持ち、唇に知恵を備えましょう。本当に知恵があるならば、その知識を教育に飢えた人に与えましょう。真の知恵を持つ正しい人は、多くの人のために役立つものですから。
士君子と呼ばれる立派な人は、他人が愚かで迷っているところに出会えば、適切な言葉を与える事によってその人を危機から解き放つことができる。これもまた、士君子の限りない功徳です。
(聖書、原始仏典、菜根譚、ルネ・ジラール、マザー・テレサ、ニーチェ、サン=テグジュペリ、クリシュナムルティの本などから引用改造)
◆愛の神の光を!
どんなに幸福に満ちた希望も、本当の光であったためしはない。
輝かしい希望の中に、いつ訪れるとも分からぬ闇が隠されていて、それは常に希望の構造そのものである。
希望は闇を敵視せぬどころか、むしろ希望は光ゆえに闇を生み、闇をはぐくむと理解される。
希望の生成の瞬間から光はすでに闇を含み始めているのです。
だがひめられた絶望という闇が表面化するまでに、どれだけの失望を経過するとしても、
希望は全い絶望に化するその瞬間まで、光であることをやめはしない。
たとえ希望の属性とは考えられていないもの、
たとえば不幸な未来、たとえば多額の金銭の消失、たとえば自由の制限
によって冒されているとしても、
希望の光は絶望の闇の中で鋭い光を放っている。
幸福への希望が、絶望の闇にかえる時はあっけない時もある。
その瞬間に希望は跡形もなく霧消し、全い絶望が立ち現れる。
だが――
どんなに深い絶望の闇も、本当の絶望であったためしはない。
一欠片も光がないがごとき絶望の闇の中に、かすかな希望の光は、
多様な闇の中に自己複製子のように隠れていて、それは常に絶望の構造そのものである。
存在のその瞬間から絶望はすでに、希望へと生き始めている……
どんなに整った秩序も、本当の秩序であったためしはない。
一点の乱れもない秩序の中に、目に見えぬ微少な乱調とでも呼ぶべき混沌が隠されていて、
それは常に秩序の構造そのものである。
秩序は混沌を敵視せぬどころか、むしろ秩序は秩序ゆえに混沌を生み、混沌をはぐくむと理解される。
自我の存在のその瞬間とは混沌とした未分化な<エス>から生じたものだ。
だが後に生じた秩序が混沌に帰す長い過程に、どれだけ乱雑さの諧調を経過するとしても、
秩序は全い混沌と化すその瞬間まで秩序であることをやめはしない。
たとえ秩序の構造とは考えられていないもの、
たとえば無知から来る無明、ペルソナに抑圧された暴力的衝動やリビドーの発露、エヴァ初号機のような暴走
によって冒されているとしても、
秩序は混沌をも支配する法則として隠れている。
秩序が混沌へ還る時はあっけない時も多い。その瞬間に見せかけの秩序は跡形もなく霧消し、
全いニート生活のような混沌が立ち現れる。
だが――
どんなに乱雑な混沌も、ほんとうの混沌であったためしはない。
一欠片の理法がないがごとき混沌の中に、全てを支配する法則が自己複製子のように隠れていて、
それは常に混沌の構造そのものである。
存在のその瞬間から混沌はすでに理法の手の内に生き始めている……
どんなに優れた賢者も、本当の賢者であったためしはない。
秀逸さを誇る知性の内に、気づきにくい愚かさが隠れていて、それは常に賢者の知性そのものである。
知性は愚かさを軽視する事もあるが、むしろ知性は知性ゆえに愚かさを生じ、愚かさをはぐくむと理解される。
賢者の形成の瞬間から知性はすでに、愚かさを生じ始めているのだ。
だがあからさまな愚かな表現の生成の過程に、どれだけの劣化を経過するとしても、
知性は全い愚かさに化するその瞬間まで、賢者の成立根拠であることをやめはしない。
たとえ賢者の属性と考えられているもの、
たとえば高い知能指数、高い社会的ステータス、高いコミュニケーションスキル
を誇っているとしても、
愚かさは知性の仮面の影で鈍い光を放っている。
知性が愚かさに変わるのは簡単だ。
その表現で賢者は愚人とみなされ、軽蔑の対象ともなりえる。
だが――
どんな愚人も、本当の愚人であったためしはない。
知性の欠片も感じられないと言われる愚人の中にも、多様な知性は自己複製子のように秘め隠れていて、
それは常に愚人の知性そのものである。
愚人の表現のその瞬間から愚人の知性も、賢者へと生き始めている……
(谷川俊太郎「灰について私見」から引用改造)
愛の不足した人が、その心を愛に満たす事ができるだろうか。
いつも黒い衣を着た人が、いつかその衣を脱ぎ捨てるように。
闇に馴れ、闇に染まりきった者に、今から光を受ける事はできるだろうか。
子どもじみた<エス>の同胞よ、私たちは愛の不足した子どものようだ。
外側は無口な読書家や音楽に浸る者で、内側は子供じみた模倣表現で満ちている。
私たちは黒き衣や灰色の衣を着て自己否定的思考に陥ったりしている。
ある人達は私たちを愛の神にすがる者と呼ぶ。
無条件の連帯の肯定などしない人たちによるリンチと、灰人の自分自身に対するうまくいかない愛が、
灰人の孤独を牢獄に化しているのです。
わが友よ、逃れるのはやめて、連帯関係を築きましょう!
あなたはいわゆる世の人々のひきおこす喧騒によって、疎外された環境に置こうとされ、
また世の人たちの毒をもった言葉の針によって、刺され続けているではないか?
あなたは毒のある言葉に刺されて、疲れている。
百ヶ所も心に傷を負って、心から見えない血を流しているではないか?
しかもあなたの誇りは、これに対して怒ろうともしない。
私は灰人として生かされた。私は私の身体を黒衣で覆った。
私には、愛が足りなかったのだ。もしもっと愛があれば彼ら笑う人々をも愛しただろうに。
愛の神よ、どうか我に授け給え
我が愚かさを、嫌悪の情にかられずに眺めえる勇気と
賢者に変わる力を!
(聖書、ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」、ボードレールの詩から引用改造)