この方のブログを読んで、介護していた頃を思い出した。
岩佐さんは20年も介護されて立派である。お強い。
今、介護している人々の励みにきっときっとなっていることでしょう。
息子さんが一歳お誕生日を迎えられたそうで、
我が家の長男小1、次男1歳の時と重なった。
重い話なので、興味のない方はスルーしてください。
夫と私は歳が離れているので、義父母の年齢も高かった。
認知症の義父はこの頃、末期がんとわかり、在宅で看取った。
夫は仕事を早めに切り上げ、夜は介護をよく頑張った。
義弟さんも週1の泊まりを始めた。
叔母もよく様子を見に来てくれた。
義母は義父のために柔らかい食事を作ったり頑張っていた。
私の両親は、出かけたい盛りの長男をよく遊びに連れ出してくれた。
私も小学校の行事をこなしながら、次男の世話をして、義父の介助をして、ミキサー食も作ったりと、次男を育てるため憧れの専業主婦になったのに生活が介護モードに変わってしまった。
ヘルパーさん、訪問看護、訪問診療の医師、ケアマネジャー、たくさんの方が助けてくれていたが、日中は私が対応したので次男をいい子にさせて同席するのは結構大変だった。
義父の認知症で慌てたのは食器用洗剤をほぼ一本飲んでしまったこと。ゲーゲー吐いていて状態がまずそうなので救急車を要請した。
それで、救急車は来てくれたのに、
「なんでもありません、大丈夫です」
と病院へ行くのを義父が拒否して、救急隊を困らせてしまったこともあった。
痛みが出てからも無理してトイレに行きたがるので、尿瓶やポータブルも置いたが、「わかった」と言っても認知症だからリセットされ、トイレに行く。
介助が必要なので義両親が「誰か来てー!」と叫ぶ。
次男のオムツを変えている時に義母に呼ばれて、次男を下半身裸のままサークルにツッコミ、義父トイレの介助は約20分かかるので(身体が痛くて動けないから)、次男の所に戻るとお漏らしして寒そうで、服を着せて片付けながら私は泣いてしまった。
そんな話を自分の母と、よく助けてくれた叔母に「辛い」
と聞いてもらっていた。
義父は通い介護数年もあったが同居1年、義母は義父が亡くなってから認知症が進行し最期1年間は施設、義両親約5年の介護。
義母とは約4年の話があるので、もっといろいろある。
元気な頃はデイサービスを自分で断ってしまうので、私が外出できなくなり大変困った。次男連れて3人で公園で過ごしたのは楽しい思い出でもあるけれど。
「行かなければならない」と言って、よく取り憑かれたように1階と2階の階段を往復していた。当然危ないので、ずっと見守ってなければいけない。
夜中も急にガタガタ大きい音を立てるので何事かと思うと、「財布がない」と慌てふためいて狂ったように探す。
お決まりの「あなた、取ったでしょ?」も言われた。
一緒に探してあげるのだが、翌日眠くて私はイライラしてしまった。
「トイレの場所どこだっけ?」と夜中に起こされるようになり、この日から夫が義母といっしょに寝るようになった。
夫も身体が持たないので、週に1回民間の夜間介助を頼んだ。週1回の義弟さんの泊まりも続いていたので助かった。
日中は穏やかな人なのに、夕方〜夜に完全に鬼の形相に変わって怒鳴ったりわめくことがあり、疲弊した。
ショートステイは「帰りたい」という義母の求めに迎えに行ってしまう夫、完全に失敗した。
施設は納得して入る人はあまりいないでしょう。
「早く帰りたい」「恨むから」という言葉が耐えがたかった。
夫から施設に週2回通おうと言われ、最初は家族4人で行っていたが遠くて週1回がやっとだった。
夫は週2回会いに行っていた。
義弟さんも週1回行っていた。
外出してレストランでご飯を食べるとき、義母の表情が幸せそうで嬉しかった。
家に帰ったら「もう施設には行かない」という勢いがあったので、一時外出で家に連れてきてあげれなかったのが心残りである。
私は、夫婦は運命共同体という美しい名のもと、何も分からずその環境に身を置くしかなく、立派にやり遂げたとは思えていない。ダブルケアラーは大変だった。
ダブルケアラーに関わらず、現在、介護に奮闘されている方も沢山いらっしゃると思う。
在宅でも施設でも介護者は気掛かりが多く落ち着かない。
無理のないように自分の身体を労ってください。