ピアニストの指 | くずかご。

ピアニストの指

 殆どのピアノ曲は指が10本あることを前提に「描かれて」いるので、その曲も例外なく楽譜が音符で黒くなっていた。
 青年は、他のピアニスト候補たちと同じように指が10本あったので、別に何とも思わずに課題曲として渡されたその曲を一度読んでみた。ところどころ難しいな、と思ったが、まぁおおかた大丈夫だろうとその楽譜を譜面台においた。彼は非常に勤勉なピアニスト候補であったので、一日何時間もピアノの前に座って練習を続けた。
 しかしある日の事、目が覚めると左手の親指が無くなっていた。どうしてだかは解らないが、とにかく無くなってしまったのだ。彼は少し不安になったが、無くなってしまったものはどうしようもないと思って、親指なしでその曲を弾けるようにと練習した。なんて事だろう。親指が無いだけで、こんなにも弾きづらい。
 次の日には、右手の薬指が消えていた。彼は医者に相談したが、医者も原因が分からなかったので、彼はますます不安に駆られた。夢中になってピアノを弾いて不安定な感情を抑え込もうとしたけれども、不安はかえって大きく成るばかりだった。次の日も、また次の日も指は一本ずつ消えて、彼の指はとうとう6本だけになってしまった。
 彼は今日こそ指の消えるところを見ようと思って夜中ずっと起きていた。そして夜中の3時になると、一瞬なくなった指が全部戻ってきたような感覚に陥った。彼は驚いて自分の指を見てみると、指は全部で5本に減っていた。彼は泣き出してしまった。
 しかし、彼はある事に気がついた。ピアノの前に座って五本の指でピアノを弾いていると、失った指で弾くはずの音ががどこからかあふれてくるのだった。彼が途方もなく絶望したことに、その音は彼が思い描いていた音とすっかり同じだった。しかし彼は、努力してもその音を得ることは無かったのだ。しかも、残った指で弾く音がどうがんばっても思い通りの音が出せないので、彼はもっと絶望して、自分の指を呪った。
 彼は思わず泣き出してしまった。泣きながらピアノを弾いたので、彼の黒いズボンにはすっかり涙の跡がのこってしまった。
 とうとうテストの日、青年の指はたった3本になってしまった。その指を見て教官たちは驚いてしまったが、彼がすっかりあきらめた様子で椅子に腰掛けたのでさらにびっくりしてしまった。それから、彼があんまり完璧に曲を弾くので、とうとう教授たちは演奏を終えた彼に声をかけるに至った。
「君、どうしたのかね、そんな指で、どうして曲が弾けるのかい。」
「それは、自分にもよく分からないのです。教授。気がついたら、音があふれてきているのです」
 青年は正直に答えたが、教授たちは信じろうとせずに、彼にもう一曲弾くようにと要求した。彼はあきらめて椅子にこしかけ、弾き始めたが、結果は先ほどと変わらず完璧だった。
 しかし、彼はこの時気づいてしまった。指は無くなったのではない。指は彼の躯の中に入り込んでしまったのだ。無くなった指は、彼の体の中で曲を弾き続けているのだと。
 彼の指は二本に、一本に、そしてゼロ本に成ってゆく。彼はその度に理想に近づけるのだ。
 


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