開催を知ってから、だいぶ先のお楽しみのように思っていたのに、あっという間にやってきて、そして終わってしまった。







期間中、3回ほど足を運んだ。



他ならぬ尊敬してやまない辻先生の作品、ファンの方々は口々に言う。


「辻さん、どれだけ多才なの!音楽に、執筆に、料理に絵まで…素晴らしい!」



僕ももちろん心からそう思うし、平素日中一切揺れ動くことのない感情が爆発したかのような心地を覚えた。



けど、同時に悔しくてならなかった。

絵の素地がなさすぎて、何がどう素晴らしいか言語化できないのだ。

音楽にせよ何にせよ、"考えるな、感じろ!それでいいんだ!"と言う人もいるし、実際作家としてもつらつらと感想を連ねられるよりシンプルに「よかったです!」の方が嬉しいのかもしれない。



でも、言葉にできないということはつまり、脳内でほぼ理解できていないことの証左だから、猫に小判豚に真珠が過ぎるのではなかろうかと。



それは飯も然り。




遠くから見たり、近くから見たりを繰り返し、作品に、飼い犬のもの(もしくは絵筆)と思しき毛を見つけたり、文字や人影を見出した時は「おぉ」と思ったが、それでもやはり理解には遥か及ばない。

一文字も読めないヘブライ語の辞典をパラパラとめくって閉じたくらいのやるせなさである。



これでも、幼少期には相当数絵画に触れ、日比谷のグランメゾン、アピシウスを訪れた際は、マルクシャガール、ユトリロ、モジリアニーと一通り絵画知識をひけらかし(支配人の対応があからさま変わった瞬間)、昨年二度の渡欧でも全アーティストの歴史を予習した上で臨んだり……してるのにこのザマなのだから、多くの人がきっと、




みんないちいちそんなこと思ってないか。




でも僕はこれを残念と思う、その感覚を大切にしたい。




先月飲んだワインの名前、ラベルの写真は撮ったものの、覚えているかい?味は?香りは?




記憶にも残らない(残せない)意味のない経験は重ねたくない。



この3日で目に焼き付けた辻先生の絵画はいずれも、油絵の具の色合い、ひび割れ具合含めて鮮明に記憶に残っている。



今同フロアは、絶賛英国展。

スコーンを求めて人が溢れかえっていて不思議な感じ。

そして地下階に行くと…


なんと、辻先生の日記に幾度となく登場するこの方ご本人がいらした。







次回ライブはロンドン、そして個展とライブ2本終えられ、もうすぐパリに戻る辻先生の布石が打たれているようで、なんだか嬉しかった。