今回、写真はこれしかない。

とりあえず、予想通り、もうとんでもなく素晴らしい鮨だった。



…って、これじゃあまるで、

"本当は行ってないのに、通り掛かりにパシャリと外観を撮って、食べログで調べて、さも行ったかのような記事を書いた奴"みたいじゃないか。

僕はそんな超可哀想な奴じゃないぜ!





昨年から、やたら高級鮨店に行く機会が増えた。
それも、全て同じ激美人と。
昨夏の利崎、新春のよし竹に続き、会員制のこちらへ。




しかし、ここ最近、本当に孤独感が凄い。
それは、友達がいないという意味ではなく。


言うならば、
"同じ景色を見ながら食べているなぁ、と痛感できる人が、ほぼいない"
という虚しさを胃に押し込みながら食べているような感覚。

そもそも食に興味のない人(そちらの方がなまじマシかもしれないとも最近思うが)というわけでもなく、それなりに飯好きな人、資力ゆえに良いものを食べる頻度が多い人に対しても、それは痛切に感じる。


別に飯のうんちくなんてウザいだけで邪魔だし、楽しく食べられればいいじゃん!
そう返されそうだが、そんなもん僕は千回くらいそう思おうと脳内実験を試み、そして失敗した。


言うならばさ、こんな感じ。

映画を観に行って、その映画が歴史的背景とか主人公の感情の機微とか、いろいろ感動ポイントがある作品だとして、終演後それを噛み締めているところに、連れ立ったやつが「なんか分かんないけど、ファンキーな映画だったな!アハハハ!」と言い放った…そんな、感動の涙も秒で乾く思い。
(俺私、人と映画行かないし、というツッコミはなさらなくて結構。そもそも僕も絶対人と行かない)



笑顔で美味しそうに食べるのが1番だよ!

とはいうけどさ。おっかさんが作るカレーならそれでいいかもしれないけどさ。
鮨ネタがワラサだかサワラだか鰯だかさえ分からず、生クリームかホイップかも分からず、ガストのパンケーキとナッティーズカフのそれの違いもわからず、うめーうめーと貪り食われても、別世界にいる気分になり、「美味しいものを一緒に食べている幸福感」になんて到底浸れない(どころかむしろ)。


「育てればいいじゃん!」という声もあったが、ダサ亭主改造計画でもあるまいに。
或いは、PJを良さげな店に連れて行き、その後の「大人」を期待するパパじゃあるまいに。
何が楽しくて、舌の発育の遅い人を僕が育てなきゃならんのだ。


1番タチが悪いのは、「己の舌、未成熟につき」と自覚することもなく、いい店やれる店知ってるよと、イキり倒すおじさん(同業にとにかく多くて辟易とする)。




虚しい。
実に虚しい。
よって、年々1人飯が増えた。
アドレス帳をしらみつぶしに見て確認したわけじゃないが、パッと思いつく限り、少なからず「同じ景色を見ているね」と思えるのは、この激美人くらいしかいない。

不思議だなぁ…。
食べログのクチコミを見ていると、結構「知ってるなわかってるな」と思える人も多いし、テレビ番組を見ていても著名人に分かってそうな人は割といるんだけど。


寺門ジモンさんと飯に行けたらなぁ…。
(ちなみに、このタイミングでのジモンさんだが、別に上島さんの件に絡めたわけでも何でもない)


そのジモンさんが、「取材拒否の店」という番組で言っていた。

「よくない鮨店は、魚くさい臭いがする。いい鮨店は、木の匂いがする。」


…この一言に、「わかっている」が凝縮されている。



この店もまさに。


ちなみに、写真がないのは、利崎、よし竹のときも。
彼女の食べ方に惚れ惚れし、それに倣ったのだ。

パシャパシャ写真を撮ることも、スマホをいじることも(そもそも鮨屋でバイ菌だらけのスマホを触りつつ鮨を食らう自体、不潔である。たとえ箸を使ったとしても)せず、目の前の食以外の話で何食べたか分からなくさせることもなく、ひたすらに目の前に出された宝石のような鮨と空間と対峙する。


そして、「おいしーーねーー」と微笑む。



ちなみにこの日は、彼女と2人ではなく、僕の先輩らが一緒だったのだが、とりあえず、今後もやっぱり「友人知人同士を繋げる」ことは絶対にすまいと固く自分に誓った。
僕にとって失うものしかないのに、得られるシナジーも結構多いでしょとばかりのスタンスを取られると、大切な宝箱を荒らされ、骨の髄までいろいろ吸い尽くされた気分になる。



ただ、1つ。
この日も激美人は本当に激美人で、非の打ち所がなく、彼女が心から好きだなぁと痛感した。
それが収穫。



さ、チョコバッキー食って寝よ。