焼き芋ブームなんすか?



焼き芋、小さい頃から死ぬほど好きなんだけど、やっぱり焼き芋は、おじいさんが売りにくる「♪いしや〜きいも〜や〜きいも〜ぉ〜」がいいな。



といっても、待てど暮らせど、理想の石焼き芋おじいさんは売りにきてくれない。

なので、流行りの焼き芋専門店的なやつを試してみることに。

日比焼き芋。






鳴門金時にバタートッピング。

シルクスイートもおまけしてくれた。






いい天気。

くっそ寒かったけど。




とても美味しかったけど、やはり、石焼きには勝てない。

おじいさん、早く売りにきて。





以下、芋と無関係な僕の心のうち、つらつら。






ここ1年、そこそこいろいろなことがある中で、何となくそれとなく辿り着いた(多分)思考の1つ。




「どんな事実も、見方次第、自分の気持ちの持って行き方次第で、どうとでも評価できる」こと。




そこまではまぁ、幼少からずっと座右の銘としてきた「何でも気の持ちよう」を言い換えただけなのだけど、そこからさらに派生して、




「だからこそ、とうとうと延々と評価について悩むこと、他人の気持ちを推し測りまくることは、無為である」と思うに至った。




解説するほどでもないが、事実と評価は違う。


「愛ちゃんは涙を流している」は事実。

それに対して

「愛ちゃんが涙を流しているのは、つらいからだ。」というのは評価。




当たり前だが、評価は多種多様である。


仕事中一言も喋らない人がいたとして、

「物静かな人ね、素敵!」と評価するか「感じ悪いつまんねぇやつだな!」と評価するかは人それぞれ。

もっとも、この場合の評価は、あくまで客体の見た目から一方的に評価しているだけである。

なので、主に評価する側の受け止め方が作用したものといえる。



一方、

「そいつが喋らないのは職場が嫌いだからだ」と思うか、「仕事が好きすぎて集中しているんだな」と思うかも、同じく人それぞれではある。

だが、上記と大きく異なるのは、対象者の心情推測が評価の前提となっていること。


もちろん、この場合もどう受け止めるかは受け手の自由ではあるが、心情推測である以上、そもそも大きく外している可能性も高い。

そうなると、評価の前提に誤認が挟まるので、必然的に評価も不適切となる。



じゃあ、時間をかけて徹底的に分析すれば評価の精度も上がるかといえばそんなことはない。

他人の心情なんて、どんなに見た目や発される言葉を細かく分析したって分かりっこない。

下手したら、本人さえ「なぜ自分はこの挙動をしたか」、その動機目的を正確に把握していないことも多い。




なのに、あれやこれや延々と、その言動挙動の意味や心情を読み解いた上で評価に落とし込もうとすることは、実に不毛である。




上司からの凄まじい恫喝に対して、

「あの歳になって、よくあんなエネルギーあるな」と思うくらいは、まあこちらの一方的評価の域。

なので、まぁどうせなら爽やかでさっぱりとした評価ができる人の方がストレスが溜まらず得だろう。



恋人の浮気に対して

「冬彦さん、真面目そうな見た目なのに随分破廉恥なのね」と思うのも、こちらの一方的評価の域。

なのでこちらも、まぁどうせなら爽やかにさっぱりと評価して流せる方がストレスでどんどんブスになることなく(冬彦さんの浮気を加速させることなく)得だろう。





一方で、上司の凄まじい恫喝を

「うわぁぁぁぁん!で、でも、あれは僕のためのあったかい指導なんだ!そうだよな?」と思うか「いやいや、僕を無能だと思い込んだ、そのバイアスとうがった狭い視野でもって、ただ僕を攻撃したいんだ!」と思うかには、相手の心情推認が入ってくる。

上司の本心なんて、どストレートに聞いたって胸ぐらえぐったってわかりっこない以上、想像の域を出ず、よって滔々と考えることに意味はない。





恋人の浮気を

「あれは、私に嫉妬させたいだけよ!そうよそうに違いない!」と思うか

「私が劣化したからね」と思うかも同じである。

(もっとも、浮気に関しては後者のように謙虚に原因を評価する人は稀有である)




これまで僕は、そういった他人の心情が絡む領域も滔々と考え(というか、世の中本音を言わない人が多い分疑心暗鬼になり)、友人の一挙手一投足の意味も考え、無限ループに陥っていた。




もちろん、経験則からある程度「正解っぽい評価」に辿り着くことは可能である(あいつが頭を掻くのは、言い訳をする予兆、とか)。

けどそれも「っぽい」にすぎず、正解とは違う。




思考すること自体が無意味とは言っていない。

小学校の先生じゃないけれど、「なぜ」をやめたら馬鹿になるのは、大人でも言えることだと思う。




だが、(心情推測が前提の)評価によって自分の時間と脳のキャパが支配され、挙句ネガティブな方向に持っていかれることは、馬鹿みたい以外の何物でもない。




時間は有限である。

何でも気の持ちようもいいけれど、あれこれ逡巡して何とかプラスに受け止めようとしているくらいなら、心から魂揺さぶられることに貪欲になった方がいい。



それは、物だって人だっていい、そういうもの、誰だってあるはずだ。



"心から魂揺さぶられることを、もっと、もっと"




これが僕の2022年の、そして多分今後ずっと続く目標だ。

(2021年の「視座を養う」も引き続き。)