いつかの雨の日の夕方前だった。
といっても、最近ずっと雨の日だが。




ずっと気になっていた、四ツ谷の新宿通りから脇に入り、かなり細道のどんつきにある喫茶室、モヒーニ。紅茶専門店だ。







どのくらい奥まっているかというと、このくらい。



食べログで事前に予習済みだったが、とにかく店主(塩川正十郎に似た、老齢男性)がよく喋る。どのくらい喋るかというと、ビックリするくらいよく喋る。どのくらいビックリかというと、滞在していた1時間半(客は僕だけということもあったかもだが)、ほぼずーーーーっと喋っていた。なので、カフェでゆっくり本読みや作業に没頭したり、物思いに耽ったりしたい人は行かないに限る。



以下、いつも以上に逸れるが、少し熱く書かせて欲しい(どうせこのブログ、写真しか見ていない人は冒頭から文章ターーーンとスクロールだろうし、いつもよりターーーーーーーンがなげぇな、くらいにしか思ってなかろう)。





人の話を聞くときの僕の思い、そして、僕の全ての行動に繋がっているポリシー
「言いたいことは、全てはっきり言う。思いやりを持って、言い方さえ気を付ければ、相手は気を害さないはず。むしろ、無理して聞きたくもない話を聞き、行きたくもない飯に付き合い、裏で"ホントは行きたくなかった"だとか、"山田さんから愚痴ばっかり聞かされていつも苦痛"とかヒソヒソネチネチやるくらいなら、正々堂々いこうぜ」、と思う。
その我慢によって、誰も得をしない。話した相手、誘った相手も不憫である。良かれと思って、とっておきの話をし、時間とお金を割いて楽しい場をと声をかけてくれたのに、実は相手は苦痛だったなんて!僕なら、そんなの嫌すぎるつらすぎる。さっさとハッキリ言って欲しい。「ごめん、そういう話題苦手なんだ」でも、「今、やらなきゃいけない作業があって」でも、「今日は1人でゆっくりしたいんだ」でも、なんでもいい。なんなら、「ごめん、すっごく行きたいんだけど」という前置きさえ、本心すっごく行きたいのでなければ不要、というか変に次回への期待を持たせるようで有害でさえあると思っている。







僕はこの日、翌日の大切な用事のため、紙とペンを持って1時間半集中するつもりだった。
では、まくし立てる店主を制止したのか?
…しなかった。なんなら、閉店間際まで、店主の広範な紅茶知識に耳を傾け、時に手帳に書き留めていた。冒頭数分で、湯を沸かすさまを見にこいと有無も言わさず指示された時点で、切り替え、紙とペンは鞄に閉まった。





上記は、言いたいことははっきりと言うし言えやスタンスについての説明だったが、以下に、人の話を聞くときの僕の思いを綴らせていただく。それによって少しでも、今回僕が紙とペンをしまった真意を理解してもらえたら何よりだ。





多くの人々、殊に人生の先輩方は、自身の武器をいかにして立派なものにしたか(功績、成功体験等)見せてくれる。
こちらが己のまだ丸っこい道具を、「ちなみに僕のはこれなんですが…」と見せようとしても、「あー、それで私はね」と比較的一蹴され、その方プロパーな武器の話になることが多い。



ここまでは、割と共感を得られる話だろう。だが強調したいのは、「だよね、うざいよねそういうやつ」という共感を求めているのではないこと。僕は全くもって、それに不満がないのだ。むしろありがたい話が聞けて嬉しいと思っている。そして、ここはいったん自分の道具は鞄にしまおうと思い直し、傾聴に徹する。聞くからには、いわゆる失礼な人にありがちな、"ハイハイ聞いてあげてますよ"的なスタンスや、横澤夏子が揶揄して物真似しそうな、「わー、すごーい、そうなんですねーー」というオフィスや合コンにいがちな"聞き上手"女性は、相手に無礼なだけでなく自分の為にもならず、心底無為な時間だと思う。
せっかくの時間なら、心からいろいろ学びたい、そう思ってその時間を過ごしたい。それによって、その日が充実した日になり、人生が豊かになる、そんな気がするのだ。



それが、今回僕が紙とペンをしまった理由。


さらに進んで(まだあるのかよ、な方は…とっくにターーーンしてると思うので)もう少し。







…一方、自分の武器をしまわなくてもよい場合(ほぉ、見せてご覧と言ってもらえる場合)も稀にある。その場合、ありがたく差し出させていただく(自身の体験談や私見など)。
そうすると、「なるほど、そういう体験をしたのか、他にはどんなことをしたの?素敵だね。なら、こういうことに向いているかもね」
…などと評価や新たな視点が加わり(もっとも、この時点で、「なるほどそれなら私はね…」と、先ほどのパターンに戻る場合も往々にしてあるが、それもご愛敬)、武器がもっと磨かれたり、自分にとって最良の使い途がわかるようになったりする。





上記どちらも兼ね備えている人は、非常に少ない。稀に出逢うと、非常に尊く感じる。
が、そもそも他人をジャッジする資格なんてないし、自分だって承認欲求と自己顕示欲の塊である。
でもさ、なりたいし、できるなら意識して目指したいと思う。両者を兼ね備えた人になれるよう。







せっかく店主からいい話を聞いたのに、こうやってとうとうと持論を述べている時点で、僕もたいがいである。




遅くない。お裾分けさせて欲しい。人生を豊かにする店主の話を。






・紅茶に添えるお菓子は、喉に詰まりそうなものがいい。しっとりしたケーキよりも、ビスケットやスコーンが、紅茶を引き立てる。

・高くなくていい。マリービスケット、なんなら百円ローソンのビスケットでいい。安いもので、贅沢じゃなくても、生活は豊かになる。

・食べ物と、合わせる飲み物のペアリングを考えること。別々に食べるより、断然生活は豊かになる。珈琲には、案外黒砂糖の羊羹が合う。

・全ての人にとって良いものはない。口に合わなくてもいい。オンリーワン。逆に、おいしいと感じるものは、自分と相性がいい証拠。そんな発見ができる人生は、素晴らしい。

・私は、安倍さんのような贅沢な暮らしはできない。けど、安倍さんより幸せだと思っている。安倍さんはきっと、ビスケットと紅茶を交互にかじる美味しさを知らない。私は毎年夏になると、らっきょうを塩漬けに、きゅうりをぬか漬けにして食べる。瑞々しいきゅうりをガリッとかじった時の、あの感動もきっと知らない。私はそんな人生いやだ、私は私に生まれてよかった。

・お茶は農作物。工場で作られるものではない。天候に非常に左右される。でも、高いところで育ったお茶は違う。雨が降らない寒気であっても、朝晩の気温に高低差がある。その寒暖の差で、空気中の水分が霧となり、朝方霧が立つ。そうすると、雨が降らなくてもお茶が生きていける。頑張る。…頑張れ、頑張れなんです。ダイナミズムですよね。

(以上、ほんの一部、僕のメモから抜粋)




僕がこの日選んだのは、マロンティーと、フルーツケーキ。
マロンティー、ミルクを入れずに2杯目以降もガブ飲みしようとしたら、勘付いた店主が慌てて飛んできた。
「日本人は、砂糖もミルクも控えすぎなんです。調味料も同じ。その素材をピリリと引き立てる、適量ってあるんですよ。砂糖をほとんど入れない煮物が美味しくないように」






素直に従い、たっぷりミルクと適量の砂糖で飲んだ。美味しい。全然違う。








ちなみに、やるはずだった作業は、その後場所を変えてササっと済ませた(僕にしては稀すぎる、バーという選択だったが、よほど気を良くしていたのだ)。何ら問題ない。むしろ、店主のおかげで、また一つ人生が豊かになった。





翌日には、紅茶専門店で「クッキー」という名前の紅茶を瓶で買った。習った通り、きちんとポットとカップを温めて、布をかぶせてしっかり蒸らして、2杯目はたっぷりのミルクと砂糖で頂いた。百円ローソンの特農ミルクビスケットとともに。とっておきの琉球皿で。1人をこよなく愛する僕、丁寧な暮らしを心がけている。毎日好きなことやりたいことを20個くらいこなしつつも、どこか穏やかなゆとりを持った時間、心から幸せだ。




ありがとう、店主。ちなみに僕は、慎ましくない暮らしも好きだし、安倍さんとまでは行かずとも豪華絢爛も大好物だけど、その思いは今はまだしまって(いつか話してみようかな、そんなタイミングがあれば)、また話を聞きに行こう。




最後に。
武器の例え、つい最近、己の武器をそっとしまうパターンの時、僕としては心底良い時間を過ごしているつもりで傾聴していたら、別れ際、話していた人生の大先輩が、ぽろっと「ごめんね、ありがとう」と溢した。
…何も思わずエピソードトークをまくし立てていたわけではなかったのだ。"聞いてやってるスタンス"の奴より己のスタンスが素晴らしいと思い、自分のためになる、だなんて偉そうな分析を、何回りも上の先輩に対して…。
自分の刀が少し錆び付いたような、そしてその刀でチクチクと背中を小突かれているような思いがした。もっともっと、まだまだ教えてもらう側なのだ。感謝、感謝。