特別展鑑賞


東京国立博物館平成館 特別展「法然と極楽浄土」 公式ページ



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場内に展示してある意識の統制によった達筆な写経、丁寧に象られ染色された芸術調の曼荼羅図、日常生活では上空からの視線は得られるはずがない俯瞰図を含んだ絵伝、生ある人物や信仰を芸術という美にまで昇華し象った像の数々。それらは鑑賞する人々を釘付けにする。名宝、あるいは自らの信仰ゆえか、はたまた絵伝や涅槃図、数々の像から滲み出る美への感嘆や製作者の思いや訴えを感取するからだろうか。 

彼らが、筆を持ち、創作に向かう力動の原点はどこにあったのか。

書く、描く、造るという私達の行為は、写真とは異なり、それらの行為を紙面や像に織り込まないことも可能である。従って書きたいものだけを紙面に書くことを許されている。つまり思うままに意識的であれ、無知という無意識的であれ、物事を、世界を抽象し、その紙面や像に表現できうる。しかし、書く、描く、造ることそのものは、意識的な作業であるのだから、展示会という意識的に催され、意識的に足を運ぶ人々の意中を射止めることになるだろう。

たとえ遺されることを意識してはいなかったであろうとも、過去から現在まで意識の連関は強度に繋がりを求め、脈々と人々の財産として守られてきたのだろう。

表現するに価する世界が、筆を持つ彼らの眼前に拡がっていたと思わせる、そんな情景や彼らの意志が、それらの財産を通して私の眼前にも拡がっていた。

しかし、表現したい意志を持った彼らは、それら財産をもって一体何を訴えたかったのか。そのような疑問がよぎったのは、眼前に拡がる展示物を眺めつつ、厳かな館内で曼荼羅図や絵伝を、正に自身の財産であるかように食い入る人々の表情に強張る真剣さを見てとれたからだ。それら財産から私達の意識の奔放さ加減を戒めるかのような訴えを感受したかのような強張りと真剣さを。

『念仏を称えれば極楽往生できる』と宣う浄土宗は、展示会を鑑賞する限り、彼らは念仏を称えることだけを遺していったわけではないことが理解できる。念仏を紙面へと表現し、曼荼羅図を、阿弥陀仏を、信仰をも超え出た芸術としても表現した。

なぜ、念仏だけでは済ませなかったのか。という問いは、彼らの信仰の熱さで氷解するだろう。その熱気には伝えるという広がりを含み、伝え広げる手段として、それら財産を創作し、空間的、時間的にも遺され伝わってきた。

しかし、過去の信仰が、現在では財産に変わり遺されてきたように解せるが、信仰の中心である念仏を称えることは今にしかできない。過去の今に称えられただろうし、現在の今にも称えられているだろう。ならば、救われるのも、その今のはずだ。現在の今に救われるのか、未来の今に救われるのかはわからない。わからないが、今に称えるしかない。そんな心境を抱えながらの布教や信仰だったかもしれない。そして、その布教や信仰は、時代が代わろうとも、常に今生きている人々に向けられていることは間違いがないだろう。

「教育(布教)とは、産出されたものへの愛であり、自己愛を超え出た愛の剰余である。宗教とは、われわれを超え出た愛である。芸術作品は、自己自身を超え出たこのような愛の模写であり、しかも完全なる模写なのである」(※1)。

上記の意識的、意志的な活動が、仏教の目指す到達点である涅槃とどのような関係にあるのかはわからない。しかしわからないながらも、愛ゆえの布教『念仏を称えれば極楽往生できる』という言葉の発信者の真意は、他でもない仏教という背景と重ねることで浮き彫りにできなくもないだろう。

私達の生活する社会では、私という自我が優勢だが、仏教書でよく示される、「涅槃とは、即ちこれ煩悩諸結の火を滅す」(※2)とは、「滅する」ことが可能な内なる鬼が住み、加えて世界は自我だけではないこと、また過去この教戒が示された時代にも涅槃という境地に反して、私という自我の優勢が顕著なことを示している。しかし内なる鬼を滅することそのものを第一義的な目的とするならば、その目的以外を排除せしめる自我の強さにより、煩悩の禍へと堕ちていく不安定な心理をさらけ出す契機になるだろう。しかし、人はそう極端ではないが、知らず知らずそう極端ではない間もある。

欲求は身体と密接な関係があると精神心理学の分野ではよく分析されている事柄ではあるが(※3)、意識は身体の欲求に無意識に従っていることを知らないでいることもあろう。あたかも欲求の行為が私という意識の選択ゆえの帰結かのように。

意識は、常に私という人の前面に押し出され現実に晒され続ける夢を見ている。見ることが目で為されることならば、物質的な目、あるいは世界を見ている私(意識)に対置される、世界が見えている私(意識ではない)=世界に開いている私(意識ではない)で直視する先は具象的な世界であり、意識の目で選択的に見ている先はその具象的な世界とは異なっている。例えば多くの人々が千円札を紙という物質、あるいは言葉以前の物自体としては見ない。千円という社会的にのみ通用する、見えない価値を持ったお金として見ているのは疑いない。それ故に意識は夢を見ているのだが、人は、世界という自然に忍ぶ身体や物であるはずの身体動作の起因性、心の発現、自我の継続性など、一生命の中に輝く諸々がその夢の支柱となっていることを意識は知らずにいたとしても、極楽浄土もある種の夢なのだから、夢から覚める必要は全くない。

しかし、夢だと知っていること、なおかつ知りつつ夢を見続け、一生命に輝く意識以上の力のどれもを承認しながら、諸価値を意識に保持することは大いに役立つ。

「行きつく処へ行きついた生き方とは必ずなければならないが、それはいきいきとしたものとして、固定的なものである筈はない。生理的生命一つでも、刻々いまの息はいま呼吸しつつ、ある長さの寿命を生きるので、それなればこそ初めて生きているのだ」(※2)。 

私達は、夢の誘因である意識と言葉の揺らめきの中に、生き生きとした生命の姿を目の当たりするのを許されている。これを夢と言わず何と表現しようか。私達は、夢から全く覚める必要はない、のではなく、全く覚められない。

従って、涅槃とは一生命の通過点に過ぎず、だからこそ、釈迦も法然も極楽浄土という夢を携え現世に還ってきたのではないだろうか。

そして、そのような夢が反意志的に経験され、ひとたび意識と言葉の過去時制において把握されるならば、目指す浄土は理想となり得るのではないだろうか。 


※1 「ニーチェ全集 第三巻」理想社 

著者 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 

訳者 渡辺 二郎 


 ※2「正法眼蔵仏性を味わう」大法輪閣 

著者 内山 興正/山本 成一 


 ※3「無意識の心理」 人文書院 

著者 カール・グスタフ・ユング 

訳者 高橋 義孝