NHK アニメが問う戦争と未来 〜ガンダムSEEDの20年〜




ガンダム作品の中では、思い入れのある作品であったが、ロボットの機能美や形状美ばかりに気をとられ、ストーリーの根底に流れる主旨に全く至れなかった10代であった。

描かれているそのものをよく見る作業や自身の手の内にあり思いのままに操作できる機械などは好みであったのだろう。しかし、作品の内容を読み取るという、内面的な、あるいは、見えるものから見えないものを見る力、大まかに言えば推測や想像、論理から組み立てる概念まで、自立的に考えるということが、省みれば不得手であった。

そういう能力は、個々の人間そのものを見ても、あるのか、無いのかはさっぱり分からない。人間の態度や言動、振る舞いにおいて読み取ることが可能であり、読み取る側にも読み取るものに対応する用意が必要となるだろう。しかし、案外に私たち社会に慣れた大人は、互いに同じ出来事を体験して得た自身の思いが、読み取る側の他者も同じ様な思いを抱いていると暗黙に信じて疑わない。その信念のまま、態度や言動を通して他者と疎通するならば齟齬は生じる。そこで深く言葉の擦り合わせを行えばよいのだが、放置することの方が多いのは、この国の民族性だろうか。

子どもは、絶えずやったことの理由を聞かれる。「どうしてそんなことをしたのか」と。しかし、子ども的には聞かれても困るだろう。子どもの観点からは、そうするしかない、そうなってしまったのだから。理由を問う大人は、子どもも自分たち大人と同じ様に、行為には理由があると信じてやまない。だが、そう問う大人の行為にもそう大きな理由があるとは経験的に思えない。

大人の場合は、言葉による対等で緻密な擦り合わせによって、その齟齬を確認しうるし、合意形成を図ることもできる。そういう対等で緻密な擦り合わせが読み取る側の世界を広げ、読み取るものに対応する用意を仕上げるだろう。

そこで初めて自身と他者は違う人間だと理解できる。しかし、体験で得た自身の思いが読み取る側に暗黙に伝わるという社会常識は根強い。毎日言葉を交わす家族でさえもその齟齬に陥る。

そこに合意形成を阻む、個々の信念となる自尊や妬みなどが入り乱れると、もはや収拾がつかないように思われる。

そういう個々の信念の先行は、他者そのものの「違い」には見向きもせず、「同じではない」と排斥しかねない。

他者と思想や宗教、外見の「違い」から排斥するのではなく、「同じ“ではない”」という打ち消しの排除からくる差別やいじめなどの、いわゆる仲間外れは、常識や事実の基準が私、あるいは、私たちに属するという偏った信念に基づいているように思われる。

養老孟司氏が語るには、「ヒトは、違うものを「意識」で「同じ」にする能力を持っている」。

「感覚的に違う物を、意識の中で徐々に『同じにする』事ができるようになってきます。『言葉』はその能力の典型です」(※1)。

極端に意識化された社会では、「違い」を排除し、「同じ」に統一されうる。規則や教育はその典型だが、反面では、一律に「同じ」に統一することで、社会化されたこの世界をみんなで歩むためには必要不可欠な能力とも言える。

例えば、書籍「ビジョナリー・カンパニー(2)」(※2)では、偉大な企業へと成長させた人々は、他者との「違い(個性)」で偉大へと成長させたのではなく、高い水準での「同じ」規律を共有する人々との協力で成長させた、と綿密な調査を踏まえ実証している。

「同じ」は時に偉大な企業をも創りだすが、「同じ」という信念により構造化された世界に属していない、というだけで無配慮に判断された自身とは本質的に「違う」他者は、その信念により構造化された「同じ」の外側に弾け出される。いわゆる、私とは「同じではない」他者として。

それが争いの契機かどうかは分からない。分からないが、争いの真っ只中では、表面的には他者との「違い」が強調されるが、自覚されない潜在的な深部では「同じではない」打ち消しの排除が根底にあるのではないかと、今、この作品を視聴すると読み取れる。

そして、これらが伝わるということが、養老孟司氏の言う、言葉の『同じにする』能力に他ならない。

社会に溢れる言葉を理解する私たちは、すでに「同じ」に取り込まれ、そこから逸脱する人々を「同じではない」と差別しがちだ。しかし、私たちがスマホを持つ手は「手」という言葉で括られてはいるが一人一人「違う」手を所持している。視線の先の風景も「私」が見ているのだから一人一人見え方や感じ方が「違う」はずだ。表象する言葉の意味もそれぞれ「違う」場合もある。

そういう現に目の前に起きている出来事に基づいた「違い」を「同じ」にする、すなわち、「違い」の理解を共有化する必要性が、すでに社会化された世界で生きている私たちには求められているのではないだろうか。

特定の誰かに求められているのではないだろう。言葉を語る人間である以上、誰もが求めているのではないだろうか。求めている以上、人間は自分から語ることを止めはしない。




※1 養老孟司先生インタビュー②「同じ」と「違い」



※2「ビジョナリー・カンパニー(2)」 著者 ジェームズ・C.コリンズ他訳者 山岡洋一