私は動物を人のように扱うらしい。喪った猫を「彼女」と表現したことがそのように受け取られるらしい。しかし、そもそも自らを人だとはあまり思わず、考えない。では君はなんだ、と問われても、「私」だ、と答えるだろうし、「らしい」という言葉遣いの意味もここにある。この辺りが多分に噛み合わないのは、言葉の意味(使い方)が多層な構造をしているため致し方ないとして、ある種の問題も伝わりにくい。いや、無知な自身のための文章化なので、上手く伝えるつもりは毛頭ないが、残された筆致は、できうる限りの論理と事実に即し、自ら導出したことによる自信という《人間》の営為は保っている。
他者に依存しない自信と信頼や感謝、後悔などの心情と言われる内的世界は、直接的な、或いは間接的な接触であろうと他者ゆえ、或いは事物ゆえに生起しうるだろう。それならば、それらゆえに内的世界が存在してもおかしくない。そして、心情などの私の内的世界の変化は、他者をもまた別の他者に変える。例えば、愛という心情は、他者ゆえに生起し、自らが本当に愛した(ディズニー調に例えるならば「真実の愛」だろうか)他者は、愛する前の他者とは別人になる。言葉を弄することなく世界が変わり、さらに、その時点で世界は更新されるかもしれない。この世界の変化と更新は、客観的には捉えることはできず、常に主観的であるだろう。当然のことながら私の体験が私に寄与する。体験は私的であり、寄与も私的であるのだから。
ならば他者ゆえ、事物ゆえに存在する世界は、その他者にとっても私と同じ状況、同じ内的世界を持つ状態であるのだろうか。またそれを問うことに意味があるのだろうか。
この疑問は、その人の性格ゆえに他者に感化されやすい、或いは、されにくい、などの水準での問いではなく、他者を自身とは異なる存在と認識、確認し、それに伴い心情が生起するのかという水準での問いであり、心という他者との関係で現れる、有機的な内的機構を備えているのであろうか。
他者と「この」私は自ずから分かたれているのは自明の理なのだが、心や知覚など自身にのみに訪れる体験に関しては、《世間》は協調というその仕組み上、暗黙の内に同じものが互いにあることを前提としている。しかし、「この」私は自分の眼からのみ世界を見ており、痛みも「この」私のみが感じ、直接的に動かせる身体も「この」私のみである。それらをそう確信しているのも「この」私のみだとしか言えない。これらは他者も言葉で伝達はできるが、知覚や思考するのは現に「この」私のみであり、かつ、私は他者の意識や心情にとって変わったことがない事実がある。しかし、「この」が把握されるためには、他にもその実例がありうる「「この」私」は一例であることが考慮されていなければならない(「その」、「これ」でも同様に)という一つの使い方と、唯一これのみを指す「この」の使い方がある。例えば、「この」痛い指、と言う際に、様々な指があるなかでの「この」痛い指、という《客体》的な使い方と、なぜだが「この」指が痛い、という『主体』的な使い方がある。そして他者は必ず、どの指?、や「これ」や「あれ」ではなく「この」指?、という《客体》化して、彼、彼女の指を捉えるだろう。
「唯一」もまた、《客体》的な使い方が可能である。それぞれ指を比較しながら「唯一」これのみが痛い、と。主張したい『主体』は周囲の状況や状態を取り込み、周囲の内容を持たされる言明に変換され続ける。《社会》ではそのような言明で溢れているのが当然であり、言葉は一般に指し示すため、或いは伝えるためにあるのだから。
意識がある、と指示するだけでは誰の意識があるのかはわからない。だが、私の意識がある、と指示するならば、私のみの意識を指示しているのは明確であるのだが、その私とは一体誰であり、何だろうか。それは世界に存在する個々の『私』、或いは固有名詞を持つこの『私』。いやこの二種の『私』ではない私が経験主体として在るのだが、この経験主体と表現することで、またしても言葉によって固有名詞を持つこの『私』に落とされてしまうのでないだろうか。それを拒否することでしか見出だされない「この」私が現に目の前の「この」世界のみを捉えている。他者の視点を想定することはできるが、他者の眼から現実には私は世界を捉えることはできない。従って、世界の中にいる『私』ではなく、外部がないという意味と唯一という意味での世界そのものの私と指示するしか私の唯一性を保持できないのではないか。しかしこれも失敗に終わるだろう。なぜなら、伝えられた時点、言葉で一般化された時点で私は誰にとってもの『私』になってしまうのだから。
言語的に到達不可能な存在を認識的に把握してよいのかは定かではないが、現実に世界を見ている『私』ではなく、現実に世界が見えている私、そう発したくなる何かが存在している奇妙さを覚える。ならば、現実に見えている世界に登場する他者も、私と同じような在り方、すなわち世界そのものとしての私と想定することは可能だろう。唯一が複数あったとしてもどれもが異質な唯一であり、外部を持たないのならば。

思うに、私をよく観れば観るほど「他者」という奇妙な在り方にぶつかる。私と「他者」は完全に孤立したのだが、しかしなぜ、『私』は愛という感ずる心情において主観的な体験を、たとえを交え、あたかも客観的に説明することができたのだろうか。一つに言葉の一般性がそうさせただろう。その客観的な説明が広く伝わるかは別として、《私達》は、自らや他者を俯瞰的に眺め思考する視座を持っている(カントが言った様な理性の公的な使い方)。それは、言葉を持つ我々ゆえの視座かもしれない。信頼や感謝、愛という心情も自らと他者を俯瞰した視点での関係性を捉えるものであるはずだから、それら心情の視点の視座は、やはり、人と人との関係性が築かれる、言葉の相互の行き来が可能な《人間社会》に置かれているように思われる。
《一般》的であるがゆえに、記述的と言えるかもしれない。記述的とは、単に言語的ではなくてもいいはずで、「頬が赤く染まる」というような描画的でも構わないのではないだろうか。「頬は赤く染まっていない」と言語は否定することができるが、描画そのものを否定することができないのだから、「頬が赤く染まる」という描画的な状況を認識したならば、私達の心うちは「愛」の周辺をうろつき始めるかもしれないが、それを言葉で打ち消すこともできる。彼、彼女は、ただ単に体温が高まったため頬を赤らめたのだ、と。

他者の行為には、その他者の意図が必要になる。と私を含め大方の人々は考える。彼、彼女がなぜその行為を起こしたのかと。意図の無い、あるいは意図がわからない行為者を《私達》は変人や狂人と見なすだろう。従って、行為の意図は記述的な仕方で答えなければ、《社会》が「同類」と見なさない。それゆえ、《社会》に属する「同類」とくくりたいがため、「同類」と思っているために、殺人者の殺意を《社会》はその行為者に問いただしたくなる。
理由や意図は、生活する場としての《社会》では、結束を固めるもの、或いは、共感や共有を支える柱の様な働きや、自らを納得させるための他者に対する態度とも理解できる。
全く理解できない物事は、その物事を何も理解できないのだから、恐怖を感じ得ないが、理由が全く無く私達と同じだと「思う」他者が起こした行為ほど恐怖を感じるものはない。理解とは自身に紐帯されているが、理由は行為や出来事の主体に紐帯されているため、他者の理由の無い行為は、《社会》ではその他者に心が無い、異常だと受け取られかねない。だが、他人に心があると知っていることもまた、恐怖を駆り立てる一つの要因でもある。例えば、自身のこの行為は他者に嫌われるのではないか、と。この思いの前提となっているものは、自身と同じような心で、同じように感じられる他者を想定していることだろう。
この想定は間違ってはいないが、正しくもない。確かに心や《社会》は「同じ」を前提としている。しかし、ある行為を親切だと思う他者と、迷惑だと思う他者、無反応(不反応ではない)な他者は現に《社会》に共在している。人はそう反応し、これらを想定できることも忘れてはならないだろう。想定と反応は選ぶことができるゆえに、物質界の法則が縛る中でも、人の自由意志は各自にあり得る。従って、物質である脳から意志が発現するのは必然的ではないのかもしれない。

想定と反応を土台とした可能性の立場に身を置くことは、理性の公的な使い方に似ている。他者との関係において、想定と反応を「伺うこと」は感情的にできる。しかし、想定と反応を現実的可能性を考慮しながら第三者的な眼で俯瞰することは、眺めの全景を俯瞰し、かつ近景にも迫れる自由さや自律さを必要とする。
その立場ならば、私のこの行為は他者に嫌われるのではないか、という恐怖も組み替えられる。即ち、私のこの行為は他者に対して、或いは《社会》に対して、どのように、どれほど影響するか、また影響を受け取った他者や《社会》は、周囲にどのように、どれほど拡げていくか。そして、数多ある《社会》同士の影響や、それらを受け取るこの地球が抱える負荷は如何ほどか、と。
感情はすでに離別した。だが、手を差しのべられる範囲で「こちらから」掴みとるができる。無心ではなく無私として。
ここでは影響「力」という他者に誇示する能力を前提とはしていない。むしろ、知覚する仕方で対象に意識が注がれる、注意や注視に近い意味を前提としている。
私達の身体特有の視覚や聴覚は、中長距離間の知覚を有効にし(一部に嗅覚)、外界の状況を把握しようとする。例えば、歩道を歩く人々の中で、ただ一人走っている人が目に飛び込んでくる。歩いている人々との対比で、ただ一人走っている人は際立つだろう。それを目視した私やあなたは、「歩く」ではなく「走る」を、「人々」ではなく「ただ一人」を注意、或いは注視する仕方で影響されるだろう。
もう一つ例えるならば、そこに会話をしている男女がいる。会話を介して感情や思考、自身の状態から状況まで、影響を互いに与え合い、互いの影響が流入、流出している。それを目撃した第三者にもその影響が流出している。そしてこの記述をした私も、そしてこれを読むあなたにも、男女の状況、第三者の目撃を「思う」という影響が流出する。しかし、これら全体をまとめ上げる観点は誰の観点なのだろうか。会話をしている男女ではないだろうし、第三者や私やあなたでもないだろう。《世間》はそういう俯瞰的な観点を経験的に掴む、神のような、あるいは《一般》的な観点を持ちうる。しかし、『個人』の視覚のみで考えると影響の流出は反転し、影響は流入する。常に捉えているのは『個人』であり、外界の刺激を視覚するとは、「この」私に向かって外部の情報が両目を通して伝わることなのだから。『個人』からのみの視点での、視覚の影響の授受には流入はあり得るが流出は判別され得ない。他者にとっても同じだと想定すると、影響は『個人』からも流出しているように見えるが、《一般》的観念に飛躍しない限り「とっても」の観点に辿り着けないのが《社会》である。しかし、《みんな》で生活するには影響の授受の程度は想定せねばならないだろう。なぜなら、《みんな》の中に『わたし』は含まれるのだから。

視覚以外でも影響の流出入は、大小や質に関わらず、《社会》で生活する各自間で受け渡されている。影響の流出、いわゆる、見られているを意識することは、特に子どもを育てる世代では、《私達大人》の態度が子どもに与える影響はどれほどかと想定するのは重要なように思われる。子どもは大人の背を見て育つ、と謳われるが、それゆえ、その子どもが大人に育ってから他者に与える影響もその想定の範疇に入るだろう。それが《社会》の順番でもあるだろう。歳だけが順番を待っているのではない。
そんなものわからないかもしれない。しかし、《私達大人》が与えてはいけない悪影響や良い影響は、誠実に自身の記憶を参照するならば明白になるだろう。

現在と過去とは異なり、想定や反応を考える未来は、経験と思考の彼岸に設定された時間であり、日常的には、現在と過去だけでも人間らしく生活はできる。それでも真理や謎を問うように、《社会》の動きにただ合わせるだけの人生に満足できずに自律的に生きようとする人々は、未来を見つめて生きるのではないだろうか。そして、未来を見つめているのは常に今現在の自身であることで、今現在の自身と、自身を取り巻く状況や過去をもう一度問い直す機会が生まれる。
「私は事実として、他者や《社会》から影響を与えられたし、私も他者や《社会》に影響を与えてきただろう。そして、経験的にこれからも与えられうるし、与えうるだろう。従って、《社会》で生活する人間の生き方として、影響を与えない生き方は全くできないのではないか。ならば、《社会》に影響を与えていると思いながら生活していく方が、《社会》により配慮した生活を営むことができるのではないか。なおかつ、影響から生まれる私のみの体験が私のみに寄与するのだから、私は他者や《社会》から影響を快く受け入れる生活をしていくべきではないのか」。
配慮は態度や行為を変貌せざる得ない。それが配慮という言葉を発見、実感したものの責務であるかのように。
この問い直しにおいて、「影響を与える」を「迷惑をかける」に置き換えたとしても差し支えはないだろう。自身の行為が他者への注意や注視を促し、心情の発作点になるのならば。また、この端末画面という『社会』生産物を覗き見る限り、協力や助力という他者の手の支えを気づきもせずに、ただ無力に受け取るがままに生活しているものは少なくない。「迷惑をかけないで生きる」という謂いは、その支えの前では虚言となるだろう。

迷惑という不快な感じを伴う他者間との心理は、身体や物質のような実在感をもって捉えられるものではなく、事物や他者との関係から生まれ、雨や風などと同じく様々な条件下で発現する動的で現象的なものと言える。しかし、自然とは異なり、自身の心を感じるのは常に自身なのだから、発現の条件や制御は各自に持たされ、言葉として《社会》という関係に還すことができる。関係は、繋がっていてこその関係であるのだから、互いに《人間》として「同じ」もの、「同じ」言葉を持っていると言わざるをえない。
生命が祖先から受け継がれたように、「同じ」もの、「同じ」言葉を持っているからこそ、心は言葉として受け継がれてきたように思う。従って、偉大なものを扱っているという自負心と価値あるものをお借りしているという謙虚心が、私には去来している。
言葉は、《社会》生活上では不可分な関係にある。この『個人』の口から発せられる言葉は、様々な影響を他者や《社会》に与えうる。この『個人』の口から発せられるからこそ、『個人』の意見となる。だが、『個人』の意見を与えられうる《社会》とはなんだろうか?《社会》には『個人』に相応する口はないとすれば、《社会》の意見なるものもない。意見を与えられうる者も『個人』の身体で与えられうるはずだから、与えられうる《社会》もない。では《社会》とは?
『個人』を「同じ」と前提とした集合、心と同様に見えない関係を作用とした現象としての集合、と捉えると《社会》という妙な息吹きが感じ取れる。
空気のような不可視な《社会》は、物質を見る目では捉えられないだろう。『個人』のうちに自身と「同じ」ものに気づけなければ《社会》は捉えられないし、《社会》の「同じ」ものばかり見ていては『個人』という自然な身体や何故だか付与された個性と「この」私を捉えることはかなわない。
どちらがより必要か、という問いは愚問だろうし、どちらをより注視するべきか、という困惑も状況を選べない『個人』、状況に対処するすべを持ち得る『個人』によって変更を余儀なくされるだろうから、どちらを捉えていても、どちらも捉えていても構いやしないだろう。現に、その両眼で捉えているのは、「この」私であり『個人』なのだからどちらでも別段にかまわない。が、影響を鑑みるならば、『個人』の行為は「見られている」側にも立つ。そこにおいて、その両眼が他者にも備わると断言できるのが《社会》であり、従って他者が「見ている」という自意識を感じ得る。
しかし、捉える機能を有した「この」目は、「この」私のみに備わっているという端的な事実が、他者も「この」目を備えていると、どうしてわかるのかという疑問は潰えない。医学や科学が進歩して、他者との間に視神経の接続がされ、他者の目から世界が開いたとしても、見えているのは常に「この」私であろう。「見ている」と本当に宣言できるのは、常に「この」私である。
例えば、私や他者が腕を上げる。ではなくて、主語がつかない動詞のみの世界、すなわち、「腕を上げる」。誰がというのは既に「腕を上げる」に取り込まれている。とすれば、「腕を上げる」という行為も誰に示すわけでもないのだから、「腕を上げる」という行為名もいらない。動詞の世界というのも無いことになる。そういう無言語的、言葉以前の世界に「この」私は存在しているだろう。それゆえ、知覚が優位な世界を、言葉を持たない、常に『個』的な猫たちは生きているのではないかと直観できる。

自分の心情と照らし合わせた推察、或いは、言葉での歩み寄りにおいて他者との気持ちは重なり合うが、完全なる理解を示すことができないのは、この『個人』の壁による。《社会》という現象はこの現実的な壁をしばしば無かったことにしている。いや、無かったことにしないと《社会》は機能しない。それが秩序や規則、罰則を、自由や責任をも生み出しうるのだから。
しかし、《社会》は『個人』が生まれる以前から存在しているのは事実であろうし、大抵は《社会》に染まった両親から生まれるのだから、『個人』は《社会》の影響からは逃れづらい。また、この両眼が「捉えるもの」は、「捉えられるもの」があっての「捉えるもの」であるはずだから、《社会》性が溢れるこの現代で生活することは、目を向けることを拒まない限り《社会》の影響は免れづらいのではないだろうか。
しかし、事実的に人は『孤立』している。《世間》とは異なった思考ゆえの疎外感からではなく、端的に『孤立』している。だが、『個人』であるとともに可能的に《世間》ではある。従って、可能的に《世間》化された『個人』もまた受け入れられるような仕方で行為を想定しなければならないだろう。
そして、『個人』が《社会》のなかで、そう言葉で「示す」とき、『個人』と《社会》のうちにもうすでに言語的交通に対する信頼を表明してしまっている。感情的や論理的にせよ思いや思考を言葉で「示す」ことは、伝わる相手とを結ぶ言葉への信頼をすでに明示している。言葉そのものが信頼の行為であり、たとえ「私は猫である」と嘘をついた言葉であっても、「私は」や「猫」、「である」という個々の意味を疑ったりはしないのならば、「いや、あなはた人だ」と反論という交通を示せる。
《社会》の言葉への信頼はほどけないほどに固く、示された虚言自体を疑ったりはしない。しかし、虚言をついた発言者に対しては、《社会》は厳しく追及せざるをえない。なぜなら、もうすでに私達は虚言への反論において言語的交通への信頼を表明しているのだから。
しかし、「ワイン」という言葉一つとっても誰もが『自身』の思い込みに満ち満ちている。高級品の洒落た飲み物、一体験物、歴史の詰まった文化遺産、等々。従って、家族や友人、書物などと信頼関係を結ぶには、言葉の擦り合わせや想定を必要とする。その意味で、そのとき発せられた言葉を私は信じている。
この言語的交通への信頼の厚さは、古典が言葉として遺されてきた事実を思えば、何百年、何千年変わらない人々の営為を物語り、信頼の厚さゆえに人々に与えた影響は計り知れないだろう。「はじめに言葉ありき」とは最も哲学的洞察に満ちた体験談として受け取ったとしても何ら差し支えないのではないだろうか。なぜなら、冒頭に「はじめに言葉ありき」と最大限の言語的交通への信頼を表明しなかったのならば、後に続く聖句も示せまい。
遺されると想定していた古典もあっただろう。書く『個人』、読む『個人』であるために異なる解釈をされた古典もあっただろう。現在では言葉は『個人』から噴出する勢いでこの《社会》を覆う。伝わるという信頼は、いまや実現しない期待に変わってしまったかのように。どこに、誰に向けたかわからない言葉は溢れんばかりだが、そこにある『個人』の軽さは否めない。決して言葉が軽いわけではない。言葉は重さなど持ち合わせていないのだから。言葉に重みや軽さを感じるのならば、自らの自重と言葉とが天秤にかけられているはずだ。新旧を問わず言葉はじたばたせずにじっとそこに居座る。それだけを見てくれといわんばかりに。言葉が変化も進歩もしないことが、ある種の意味を伝えている。
しかし、悲しいことに言葉を捉えるこの両眼は書いた本人や書かれた意図を透視しようとする。その透視によって言葉そのものは薄れるが、人の輪郭がはっきりとすることもただあるだろう。しかし、それはどこまでいっても『個人』にのみ捉えられている。そして、可能的に他者もそう捉えることができうるならば、言葉を捉えることの影響とはその書いた本人に到達する。だが、その到達したであろう本人は、当の本人そのものなのか、それとも疑似本人なのか。「もちろん当の本人である。問題提起や言葉の使い方、文章の構成、思考、情念など疑うことなく当の本人から提出されたのだから」。「いや言葉という媒介物を介しての本人であり、本質的な本人ではない。本人の本質性は生活体験や精神的な内奥に秘められている。従って疑似と言える」。「本質的な」本人という疑問はここてばあえて無視するとして、どちらの主張も私達は意識的に想定し、真であるような現実を目撃する。ゆえに、私達から見る本人とはただ一つに絞れるものではないだろう。物質のように固まった一個体を幻想していては、どちらも本人の一翼を担っている可能性を取りこぼしてしまうだろうが、想定が絡む以前には、他者の(ここでは「本人」の)観点には誰も立てない。
しかし、二者に批評されたこの本人のように、《社会》で『個人』のうちに熟慮された想定と影響という跳躍が関係する現象のなかに身を置くことは可能である。

猫は言葉を話さないし言葉を理解しない。こちらから声をかけても幸いなことに言葉の意味を理解はしないだろう。音としての言葉にはこちらも幸いなことに音という影響ゆえに反応してくれる。言葉以前の知覚によって《私達》ゆえに影響を与え合うと言えるだろう。これが私が述べる「彼女」の起源である。
しばしばこちらの様子を伺うあの鋭い両眼は、内心をも貫かれ次の動作をそっと予測しているかの如く厳かだ。彼、彼女らの世界像は、言葉が魅せる夢に囚われていないだけに、私達人間よりずっと静謐かもしれない。いや、言葉のない世界を言葉で現すことなど無意味だ。彼、彼女は言葉で表現された世界には生きてはいないのだし、人が固有名詞や形容詞を用いて対象を思ったり、論理に従って考える世界とは別世界ゆえに想定すらできないだろう。
しかしそれらを思い考える時、この私とは異なる彼、彼女の自律する存在自体を、また存在から躍動する影響をも含め、全て認めているのではないか。それは同時に、私とは異なる他者の存在も暗に認めていることになるのではないだろうか。

思いや思考を言葉に乗せて伝えるということは、その言葉が何であれ、通じる相手の存在を無意識に想定している。通じてしまうから胸に秘める思いもあるだろう。言葉の通じなさを痛感する人は、経験が育てた自他の区別をはっきりと感じるだろうが、区別がつく以上、言葉以前の「どこか」において、自他は一致しているはずである。区別がつくとは、互いのその比較の内容を把握していなければならないのだから。従って、言葉の通じなさから各々の個性を導くことはできない。
影響とは、その「どこか」の地点に触れる《社会》的な振舞や営みであるだろう。謂わば、孤立的な「この」私という世界が擦れる一点に私達は《社会》という場を設け生活している。人は《社会》的存在であると言われる。その通りであろう。しかし、より重大な事実は誰もそういう意味で単なる人などではななく、そうであることは原理的にできず、可能的に《社会》的存在であるという事実なのである。
《社会》と関係のない事柄を考えることは、いわば子どもゆえである。《社会》に真っ向から対する善き大人は仕事や家庭、友人、趣味に尽くし、それら《社会》活動に志向し忙殺されているだろう。志向と多忙ゆえに問いの滑り込む余地はない。
私が影響を考慮するとは、夢中や真剣、独善が似合う子どもを、いつまでも大人のフリをさせる隠れ蓑に過ぎないのかもしれない。そういう隠れ蓑を必要とする《社会》は、『個人』を相殺、或いは減価させるように見える場ではあるが、《みんな》で生活するには、身勝手な幼児や子どもだらけでは立ちいかなくなるだろう。
しかし一方に、《社会》という場には互いに影響し合える他者が存在するという事実がある。その他者と私は孤立であることで根本から異なる。そのことを存在の奥底から導き出すと、他者への敬意を通過点として受容の状態へと移行するのは容易いし、《社会》での生活も容易い。異なるとは、今までにどこにも類例がない、ということなのだから。しかし、「これからも」という未来は、経験と思考の彼岸に設定された時間であるのだから、そうは決して言えない。だが、「今まさに」のみでも存在と自信は揺らがない。

《社会》では隠すべき内なる子どもを他者も持ち得ているだろうし、臆面もなく心情に左右される内なる幼児を表現する他者もいる。私はそのような行為に影響され、もし私が行為を起こすならば、その影響はどのように他者に流入するかを考慮するのみである。徹頭徹尾、「よく捉える」ことにある。簡潔に例えるならば「よく見る」という傍観に終始することなのだが、私達の世界は外部を持たないゆえに、「よく見る」ことで私自身が変わる。「この」両眼を用いてよく見る。これが私の最善の生き方としての《社会》との関わり方である。

そこの寛いでいる猫でも、写真の猫でもいい(ボルドーやブルゴーニュのワインなら私はもっといい)、それらをよく見るためには、例えば、そこの猫を産んだ母猫や父猫、兄弟猫、育て見守ってきた人々にも関心を持つことである。進化の過程を逆流してリビアヤマネコまで飛躍してもいいだろう。リビアヤマネコが住んでいたその土地や人々を思ってもいい。関心は世界が一つではないことを知る手がかりになる。そして、思うことの本質は大いに主観的に『個人』が推し測ることにある。そのこと自体を知っていることは客観に転じはせずに、客観に近づくのみであるが、自由への開闢ではある。

よく見るを過度に用いると、自らの観点の範疇を他者にまで伸ばし、他者の視点や《社会》の観点をも取り込み、常に見られている錯覚に見舞われる。それは上述の「私のこの行為は他者に嫌われるのではないか」で扱った。なぜそのような観点が可能であるかを問うのは子どもゆえであり、その錯覚に浸っていたい感覚を覚えるのは幼児ゆえであるだろうから、錯覚を防ぐために何が必要かを大人は知識として知っているだろう。『個人』と《社会》を巡る対立は子どもゆえに「この」両眼によく留まる。幼児や大人であれば「この」両眼から離せただろうか。

ひいては、《社会》に属する『個人』としての自由さを取り戻すための闘争と、『個人』ゆえに《社会》と協調するための同化の模索が常に占めていた。相反し、どちらかを断念しなければならないような犬猿の関係に見えるが、例えば、それが《花が咲く》から綺麗なのであり、この『山茶花』であるから綺麗であるような、《現象》と『存在』という階層的に区別する仕方で、問題の融解と自由を得られたように思われる。
しかし、自由には責任が伴う、とは真面目な大人が言うところである。《社会》ではその通りだろう。しかし、人はどうしたって存在的に孤立しているがゆえに自由なのだが、《社会》という現象内では階層が異なるがゆえに、それを活かす必要性は全くない。その意味において、《社会》における他者とは、影響の流入する範囲において私でもあるのだから「人間」とはその意味するところであろう。
あたかも「この『山茶花』の《花が咲く》」如く。