ワインを味わうのに、目と鼻と口があればいいと感覚的に捉えるには、あまりにも、対話的な意味合いにおいて、淑女的、紳士的な装いであり、こちらの軽装具合が恥ずかしいほどだ。
従って、酔う為に摂取する様な上戸的に呑もうという享楽にふける行為も、軽率で恥じ入るばかりである。
とは言え、私達の味覚は気持ちと連動している様で、張りつめていてはワインを上手に味わえない。夫婦喧嘩の後の食事が味をなさないのはこの為だろう。私達が人に限らずワインともに交際を通じて、淑女的、紳士的でいられるかどうかも、ワインの状態と同じほど重要だろうが、ワインはなかなかに味わう者を選べない。葡萄栽培者や醸造者、インポーターもその類を出ず、消費者個人を選べないだろう。
生産者から発せられた声を、消費者が知ることは少ない。いや、私達消費者は知ることさえ必要としない。一般に、日々の生活に向き合う私達は、ただ目の前にある現物を消費することに手一杯なのである。

私達、消費者の喜びは、その目の前にある現物を味わうことにある。ならば、現物の良し悪し、出来不出来が問題となるだろう。しかし、そこで問題となるのは、はたして目の前の現物だけだろうか。私達の感覚は先に見たように、惑わされやすい。『ブルゴーニュ地方のグラン・クリュのワイン』という言葉だけで、ワイン愛好家の気持ちは浮き立ち落ち着かない。落ち着かない気持ちのままでは、一瓶に閉じ込められた、その土地の土壌や気象などの自然的な複雑さや職人の文化が合わさった、具現と創造の複合物を丹念に味わえないだろう。

動物は生きるために食べる。私達の大抵の機会では、人は食べるために生きている。しかし、その機会の別の側面には、味わうために食べるという、感性と知性に結びついた品格的な要求が発する、抑えることができない欲求が存在する。
そして、一愛好家である私は、どこまでも消費する側の立場でしかあり得ない。どんなにワインを味わおうが、どんなに書籍を読もうとも、生産者の苦楽やワインへの愛情は味わえない。従って、「ワイン愛好家が職人にあたえることのできる最大のお世辞は、彼のスタイルを認めることである」※1。
彼は皮肉を交え、愛好家を小馬鹿にしているのではない。多くの愛好家は放縦にワインを語り、職人の葡萄やワイン、それらを作り出す源である土地への我が子を想う様な愛情など愛好家には分からない。その現実を突きつけているだけだろう。

多く、ワイン愛好家の間では決まりきった文句でワインは語られる。それでなくては仲間内に伝わらない。その様にしてワインは査定され、評価され、言葉において一般化されてきた。しかし、あなたと私が個性的である様に、ワインも一瓶一瓶が一点物に違いない。ワインの基底が私達と同じ、偉大な自然という器にある限り。
「リッシュブルはリッシュブルの香りを持つ」※2。それ以下でもそれ以上でもない。愛好家達の決まりきった文句では判定できない、そのもの自体の香りが立ち込める、とマダム・ルロワは語る。私達、人間も、自律した性格や感情的な性格など、多様に理解されるが、それらは一側面であって、その人の本質ではない。
様々な面が統合し、継ぎ目なく混ざりあい、幾様にも変化する面。それらは社会において人と交じりあいながら作り出され、あるいは成り、厚みを増していく面であろう。裏を返せば、それら面を剥ぎ取りながら、最後に残ったものが本来の己であるのだろうか。
「本来の」という起源そのものが人に在るのか、また、培い円熟した面を剥ぎ取ってまで、起源へ戻るべきなのかも明らかではないが、経験を経て円熟した面や人と社会で交じり得た、躓き誤った体験を含めた面を、捨て去る勇気は持ち合わせてはいない。それらに「本来の」私がなかろうが、今現時点の私であることには何ら変わりはない。変転する社会や世界への適応として、その現時点からしか私は変わりようもない。
変わる為の初歩には、過去からの体験が重なり合い、拡がりながら変化してきた、自分自身の面をよく観るという肉眼と心眼を用いる事しか出来ない。いや、その両眼のみが私を捉えて離さない。
「静かに静かにワインが語るのを聴きなさい。ワインが過ごしてきた歳月が、そこに幾層もの香りの襞を作り、空気に触れてのびやかに自らを解き放つのを聴きなさい。心で聴く人にだけワインは雄弁です」※2。
人についても同様に、よく観る者にだけ人は光彩を放つ。ワインも人も、私達の精神的なものが試される。見えている物が全てではなく流転する世界。観ることで蠢く世界を、この身で体感できるワインの素晴らしさは人に匹敵する。
人の心は目には見えない。見えているのは心から放たれた身体の運動だ。他人の見えない心の躍動をよく観るその先に、自らに同じ心の躍動を感ずる。そう、常に観ていたのは感ずる自分自身の心模様でもある。変わる為の初歩はここにしかない。
しかし、一本のワインに感動するには、私に心があるだけでは足りない。心を移す鏡を、躍動する鏡を必要とする。その鏡は、この世界で唯一無二の形を象り、幾多の人々の手垢まみれではあるが、生きている。
他人に生かされているわけでも、死を恐れながら生きようと息巻いているわけでもない。自ら生きるという自立が働いている。
語り合うとは、対等の立場にいることが必要である。対象は変えられない。ならば、自立した変幻自在の自身がその対象に合わせるのみである。もっともっと上に、もっともっと広く、世界に溶けていく。或いは、人々のうちに染み込んでいき、“私”という姿形など“無”くなる。しかし、そこにのみ個性は必ず姿を現す。リッシュブルはリッシュブルなのだから。