77年前の今日。
1945年6月23日は
沖縄戦での日本軍の組織的な戦闘が
終結した日と言われています。
この日を沖縄では「慰霊の日」として
沖縄戦での戦没者を追悼する日です。
約3か月という間に
住人を含む20万人以上の犠牲者を出した沖縄戦。
その犠牲者の中に私の親戚も含まれています。
ひいおばあちゃんたち。
おばあちゃんの妹。
幼くして亡くなった伯母たち。
親戚のおじさん。
おばあちゃんの妹は17歳という若さで亡くなりました。
生前の写真が1枚残っているんですが、
後藤久美子似の美人で、
バレーボールが得意だったんだって。
自らの意思で従軍看護婦として働いていた先で
腕を負傷して、腕を何度か切断されて
最終的には亡くなったんですが、
家族から離れた、しかも過酷な環境の中で
身内の誰にも会えず1人で死んでいきました。
「私のお母さんを知りませんか?」
って、近くにいた人に聞いて回っていたという
情報もあります。
私のひいおばあちゃん。
私のおじいちゃんのお母さんに当たる人は、
激戦化した沖縄本島南部から親族たちと北部に移動中、
すでに長い距離を歩いていて疲れていて、
家族に迷惑をかけたくないと思ったのか、
「私は少し休んで行くから、先に行ってなさい」
とおじいちゃんに言ったそうで、おじいちゃんは
すごくためらったらしいんですが、
「必ず来てくださいよ」
と約束させて引き続き北部へと向かいました。
それが最後の別れになってしまいました。
ひいおばあちゃんの行方は今でもわからないままです。
私のもう一人のひいおばあちゃん。
おばあちゃんのお母さんに当たる人は、
避難先の防空壕の外で
他の親戚のおじさんと2人で野菜を洗っていたところ
近くに爆弾が落ちてきて爆弾の破片に当たって負傷しました。
一緒に野菜を洗っていた親戚のおじさんは即死。
おばあちゃんは自分のお母さんを病院に連れていくこともできず、
防空壕の中で日に日に弱っていっておばあちゃんの目の前で亡くなったそう。
母の姉2人も幼くして命を落としました。
1人は2歳の誕生日に亡くなり、もう1人は生後10か月で亡くなったそう。
伯母さんたちが生きていたら、
私にももっと従兄弟がいたのになーと思います。
それよりも伯母さんたちに会ってみたかったな。
生後10か月で亡くなった伯母さんは、
私と同じ9月生まれだったんだって。
それにしても、幼い娘を2人も亡くしたおばあちゃんの悲しみは想像を絶する。
おばあちゃんは妹もお母さんも亡くしている。
戦争なんてなければ、みんなもっと長く生きていた人たちばかり。
沖縄県民の4人に1人は沖縄戦で亡くなったといわれているので、
うちなーんちゅの人は親戚を亡くした人が多いはず。
戦争なんて何ひとついいことない。
文化や言葉の違い、価値観の違いがあったとしても、
みんな同じ人間だよ。
みんながみんな愛とリスペクトを持ってお互い接していけば
(自分自身に対しても)
争いなんて起きないと思う。
でも実際のところ難しいのかなー。
広めるなら、憎しみじゃなくて、愛を広めようよ。
みんな平和で幸せに暮らしたいよね。
命どぅ宝(ぬちどぅたから)
「命こそ宝」