さて、その車中の友である「R25」の中にこんな記事があった。まあ、「売れなくても儲かる(要するに広告が記事として成立する)」リクルートの雑誌ですから、割り引いておかねばならないのですが。
「傷を乾かして治すのはもう時代遅れ!」とかで「モイストヒーリング」なるものがじつは最近の医療では(といっても記事中では「60年代から医療関係者の間で提唱」ってふるっ!もう40年も前からにしては全然浸透してない
のはなぜ?ってそっちの方が気になるけど。そして、今になってなぜ?ってのも)「傷ケアの新常識となっている」らしい。
ふぅーん、そうなの?さすがに赤チンやオキシドールでジュワジュワなんてのは聞かないけど、マキロンをシュシュッってのは今でもやってそうな気がするんだけど。
んで、なんでもこれは、
「けがをしたときは傷口をよく洗い、乾かさず患部に潤いを閉じ込めるという今までとは真逆の方法」で「しかも約3倍早く傷を治すことができる」んだとか。だったら、なんで本当に「新常識」としてもっと浸透しないのかしら?
さて、ここからがリクルートのリクルートたるゆえんなのだが、
「そしてこのモイストヒーリングに一役買っているのが、新型ばんそうこう(絆創膏くらい漢字で書けよっ!って思ったら変換されない!この辺がワードの辞書の貧弱なところで、これを書いている筆者の頭も貧弱だということになるわけですな)『キズパワーパッド』。今年3月には一時生産が追いつかず、販売休止になるほど爆発的な売れ行きなのだ。この登場により従来は病院でしか行えなかったモイストヒーリングが、家庭でも可能になった。」
んだとか。
そういや、寝たきりの人の褥瘡・蓐瘡(じょくそう。いわゆる、「床ずれ」)治療に台所用の「ラップ」が最近は使われているってのは聞いたことがあるが、あれが「モイストヒーリング」なわけね。ふむふむ。
さて、記事で興味を持ったのはこの次から。
「通常のばんそうこうと一体どこが違うのか?まず皮膚にしっかりフィットする特殊なハイドロコロイド素材だから傷口が乾きにくく、傷口から出るジュクジュクした汁を閉じ込める役割がある。このジュクジュクは今までは乾かしたり、ふき取られたりと重要視されていなかったが、むしろ天然の治療薬だったのだ。体液の一つで滲出液(しんしゅつえき)と呼ばれ、傷口に保てるほど皮膚の自然治癒力を高めてくれる。傷口をキズパワーパッドで覆うことにより、この滲出液が満たされたモイストヒーリングに最適な環境を生むわけだ(この辺、発売元のジョンソン&ジョンソンから渡された資料そのまんまって感じですが…)。そして、皮膚に5日間貼り続けるだけで傷が治ってしまう。さらに傷口を乾かす方法に比べて傷みも少なく、傷跡も残りにくいのだ。」
やっぱ、最後のが決めてでしょうな、「傷跡が残らない」っての。やたら、神経質だもんね、最近のお母さん方とそのお子たち。「歯の矯正をやっている女の子」ってのもけた違いに増えたし。
昔は、「ピアノが習いたかったけど、習わせてもらえなかったお母さん」が「子供の可能性を広げる」という美名の下、自らの満たされない欲求を我が子によって代理的に解消させていたものだが、その段階は過ぎて、審美的に満たされない自らの欲求とそれに起因すると思われる(そこに起因すると思いたがっている)自らの不幸、不運を思い起こして、
「この子だけには、私のような『出っ歯(死語、かと思ったら一発変換できたw)』で苦労させたくないわ」
ということになり、今やかつての「少年時代の勲章」でもあった「膝ッ小僧の向こう傷」も排除の対象となりつつあるようで。
そういや、虫刺されの薬とかだって「掻いちゃダメっ!」って命令口調だしな。どう頑張っても、お宅の娘さんはモデルや女優向きではございませんぜ、とはそんな健気な母子には口が裂けてもいえません。って書いてるがw
閑話休題。
記事はさらにジョンソン社の広報のコメントを引用、
「本来からだが持つ傷の力を利用する、という意味をこめてキズパワーパッドという名前をつけました」
なんだとか。
実は興味を持ったのはここのところで(長い前振りであった、いつもながらw)、
「これって数回前にここに書いた『健康』につながるじゃん」
なのであった。
つまり、そこに私が書いたのは、近代合理主義のプリンシプルたる科学のもとに発達した西洋医学の病と対決して闘い勝利を目指す医学とは違うあり方が必要なのではないかということで、それは「闘わない」という意味で「自然治癒力」にもつながってくる話なのではないか、と思った次第。
そういえば、数日前の新聞に明治期の浄土真宗大谷派の僧であり、顕学でもあった清沢満之(きよさわまんし)の言葉がでかでかと載っていた。いわく
「死もまた我等なり」。
正確には「吾人ハ死スルモ尚ホ吾人ハ滅セズ。生ノミガ吾人ニアラズ、死モマタ吾人ナリ」なんだそうだが、これにも通じるものがある。
実は清沢の名前も昔から知っていたわけではなく、先日何かで、廃仏毀釈の嵐の中で、日本の仏教関係者は外国人宣教師(もちろん、明治になって入ってきたキリスト教の)の熱心な不況態度に比べ自分たちは何もやってない、やってるのは酒を呑むばかりで反省せねばってので出したのが「反省雑誌」。それが後の中央公論になったというような話の中で、例外的に東本願寺真宗大谷派が送り出した才能がいて、東大哲学科を主席で卒業し、歎異抄を熟読した結果、「善人ナホモテ往生ヲトグ、況ヤ悪人ヲヤ」にぶち当たり、そこから「絶対他力」という概念を生み出して、真宗に息吹きかえらせたてなことを書いてあったのを思い出したのだ。
ここまで書いてきて、たぶんそれが司馬遼太郎の『この国のかたち 2』であろうことをようやく思い出した。たぶん、それが清沢だったのだ。
このように情報は向こうからやってくるのであった。アンテナが伸びていれば。
それはともかく、先に書いた「老い」や「病」同様、「死」は一度生まれたからには我々にとって不可避のものであり、それを我々の人生と無縁な無関係のものと規定してしまうならば、文字通り、我々の人生は「尻切れトンボ」になってしまうではないか。
もちろん、「生きてるうちが花なのよ、死んだらそれまでよ」という考えも一方にはあり、そして、死ねば現世的な意識は無いのだから、意識世界の住人として自我の主体を規定する近代的価値観からすれば、「尻切れトンボ」で一向構わないのだが、ならば、我々の生の意味は一心に無意味な尻切れトンボへの歩みということになってしまう。
これもまた、一向構わないといえば構わないことだが、厄介なことに、人間は何かしら「意味」がないと生きていけないものでもある。
「なんで私はここにいるのかしら。なんで私は生きているのかしら」
などと思い始めた途端、それこそ「塗炭の苦しみ」を味わうのが人間というものの性(さが)、あるいは業というものでもあろう。まあだからこそ「生きてるうちが花」で、「なんで生きるかではなく、どう生きるかだ」ということにもなるのではあるが。
そろそろ、そこらへんをしっかり煮詰めておかないと、老人先進国ニッポンの未来は開けてこないのではないかと思ってみたりもするわけで。
逆にいえば、世界の最先端で老人大国への道を進んでいるニッポンは、
「なんか知らないけど、やたら元気で楽しそうに長生きしてる老人ばかりの島国」というある種の21世紀的ユートピアを作り出し、繊維も鉄鋼も自動車も電気製品も輸出できなくなった時に、最先端として売り出すことができるではないか、とプラグマティックというかペシミスティックというかアイロニカルというかな夢想も浮かんでくる。
当然、医療というのは「治しゃいいんだろ、治しゃ!」ってところからステップアップする必要が出てくる。そこに先のような考えもあるのではないかと思うのだな。そういう意味でこれから大学の医学部には、「医療倫理学科」とか「医療哲学科」というのが作られるべきなんだろうが、法律が、役人は悪事もミスも犯さない存在というのを前提に作られるのと同様、医者は優秀なんだから、そこらへんも教養課程の授業でちょちょいとできるっしょ、という発想から抜けない限り無理なのでしょう。そして、それはある部分、医者の無能さを自ら認めることになるわけですから、ちょいと難しいかしらね。事実、医師国家試験にパスするだけで、ほかの国家試験免除で取れる資格というのもあるわけで、そこらへんは司法試験も同じ。
でもそういうの作る大学があれば、それはそれで評価の対象になると思うんだけどねぇ、この構造不況業種の中で。教員養成大学に「ゼロ免」課程があるように医者にもあっていいという大学はないものかしら。別に医師免許も取れるってことでもいいとは思うけど。