終電近くの小田急線は、年末のせいか、いつにも増して満員。この辺、その直前に乗っていた西武線との違いを感じる。

さて、その車中の友である「R25」の中にこんな記事があった。まあ、「売れなくても儲かる(要するに広告が記事として成立する)」リクルートの雑誌ですから、割り引いておかねばならないのですが。

「傷を乾かして治すのはもう時代遅れ!」とかで「モイストヒーリング」なるものがじつは最近の医療では(といっても記事中では「60年代から医療関係者の間で提唱」ってふるっ!もう40年も前からにしては全然浸透してない
のはなぜ?ってそっちの方が気になるけど。そして、今になってなぜ?ってのも)「傷ケアの新常識となっている」らしい。

ふぅーん、そうなの?さすがに赤チンやオキシドールでジュワジュワなんてのは聞かないけど、マキロンをシュシュッってのは今でもやってそうな気がするんだけど。

んで、なんでもこれは、
「けがをしたときは傷口をよく洗い、乾かさず患部に潤いを閉じ込めるという今までとは真逆の方法」で「しかも約3倍早く傷を治すことができる」んだとか。だったら、なんで本当に「新常識」としてもっと浸透しないのかしら?

さて、ここからがリクルートのリクルートたるゆえんなのだが、

「そしてこのモイストヒーリングに一役買っているのが、新型ばんそうこう(絆創膏くらい漢字で書けよっ!って思ったら変換されない!この辺がワードの辞書の貧弱なところで、これを書いている筆者の頭も貧弱だということになるわけですな)『キズパワーパッド』。今年3月には一時生産が追いつかず、販売休止になるほど爆発的な売れ行きなのだ。この登場により従来は病院でしか行えなかったモイストヒーリングが、家庭でも可能になった。」

んだとか。

そういや、寝たきりの人の褥瘡・蓐瘡(じょくそう。いわゆる、「床ずれ」)治療に台所用の「ラップ」が最近は使われているってのは聞いたことがあるが、あれが「モイストヒーリング」なわけね。ふむふむ。

さて、記事で興味を持ったのはこの次から。

「通常のばんそうこうと一体どこが違うのか?まず皮膚にしっかりフィットする特殊なハイドロコロイド素材だから傷口が乾きにくく、傷口から出るジュクジュクした汁を閉じ込める役割がある。このジュクジュクは今までは乾かしたり、ふき取られたりと重要視されていなかったが、むしろ天然の治療薬だったのだ。体液の一つで滲出液(しんしゅつえき)と呼ばれ、傷口に保てるほど皮膚の自然治癒力を高めてくれる。傷口をキズパワーパッドで覆うことにより、この滲出液が満たされたモイストヒーリングに最適な環境を生むわけだ(この辺、発売元のジョンソン&ジョンソンから渡された資料そのまんまって感じですが…)。そして、皮膚に5日間貼り続けるだけで傷が治ってしまう。さらに傷口を乾かす方法に比べて傷みも少なく、傷跡も残りにくいのだ。」

やっぱ、最後のが決めてでしょうな、「傷跡が残らない」っての。やたら、神経質だもんね、最近のお母さん方とそのお子たち。「歯の矯正をやっている女の子」ってのもけた違いに増えたし。

昔は、「ピアノが習いたかったけど、習わせてもらえなかったお母さん」が「子供の可能性を広げる」という美名の下、自らの満たされない欲求を我が子によって代理的に解消させていたものだが、その段階は過ぎて、審美的に満たされない自らの欲求とそれに起因すると思われる(そこに起因すると思いたがっている)自らの不幸、不運を思い起こして、

「この子だけには、私のような『出っ歯(死語、かと思ったら一発変換できたw)』で苦労させたくないわ」

ということになり、今やかつての「少年時代の勲章」でもあった「膝ッ小僧の向こう傷」も排除の対象となりつつあるようで。

そういや、虫刺されの薬とかだって「掻いちゃダメっ!」って命令口調だしな。どう頑張っても、お宅の娘さんはモデルや女優向きではございませんぜ、とはそんな健気な母子には口が裂けてもいえません。って書いてるがw

閑話休題。
記事はさらにジョンソン社の広報のコメントを引用、

「本来からだが持つ傷の力を利用する、という意味をこめてキズパワーパッドという名前をつけました」

なんだとか。

実は興味を持ったのはここのところで(長い前振りであった、いつもながらw)、

「これって数回前にここに書いた『健康』につながるじゃん」

なのであった。

つまり、そこに私が書いたのは、近代合理主義のプリンシプルたる科学のもとに発達した西洋医学の病と対決して闘い勝利を目指す医学とは違うあり方が必要なのではないかということで、それは「闘わない」という意味で「自然治癒力」にもつながってくる話なのではないか、と思った次第。

そういえば、数日前の新聞に明治期の浄土真宗大谷派の僧であり、顕学でもあった清沢満之(きよさわまんし)の言葉がでかでかと載っていた。いわく
「死もまた我等なり」。

正確には「吾人ハ死スルモ尚ホ吾人ハ滅セズ。生ノミガ吾人ニアラズ、死モマタ吾人ナリ」なんだそうだが、これにも通じるものがある。

 実は清沢の名前も昔から知っていたわけではなく、先日何かで、廃仏毀釈の嵐の中で、日本の仏教関係者は外国人宣教師(もちろん、明治になって入ってきたキリスト教の)の熱心な不況態度に比べ自分たちは何もやってない、やってるのは酒を呑むばかりで反省せねばってので出したのが「反省雑誌」。それが後の中央公論になったというような話の中で、例外的に東本願寺真宗大谷派が送り出した才能がいて、東大哲学科を主席で卒業し、歎異抄を熟読した結果、「善人ナホモテ往生ヲトグ、況ヤ悪人ヲヤ」にぶち当たり、そこから「絶対他力」という概念を生み出して、真宗に息吹きかえらせたてなことを書いてあったのを思い出したのだ。
ここまで書いてきて、たぶんそれが司馬遼太郎の『この国のかたち 2』であろうことをようやく思い出した。たぶん、それが清沢だったのだ。

このように情報は向こうからやってくるのであった。アンテナが伸びていれば。

それはともかく、先に書いた「老い」や「病」同様、「死」は一度生まれたからには我々にとって不可避のものであり、それを我々の人生と無縁な無関係のものと規定してしまうならば、文字通り、我々の人生は「尻切れトンボ」になってしまうではないか。

もちろん、「生きてるうちが花なのよ、死んだらそれまでよ」という考えも一方にはあり、そして、死ねば現世的な意識は無いのだから、意識世界の住人として自我の主体を規定する近代的価値観からすれば、「尻切れトンボ」で一向構わないのだが、ならば、我々の生の意味は一心に無意味な尻切れトンボへの歩みということになってしまう。

これもまた、一向構わないといえば構わないことだが、厄介なことに、人間は何かしら「意味」がないと生きていけないものでもある。

「なんで私はここにいるのかしら。なんで私は生きているのかしら」

などと思い始めた途端、それこそ「塗炭の苦しみ」を味わうのが人間というものの性(さが)、あるいは業というものでもあろう。まあだからこそ「生きてるうちが花」で、「なんで生きるかではなく、どう生きるかだ」ということにもなるのではあるが。

そろそろ、そこらへんをしっかり煮詰めておかないと、老人先進国ニッポンの未来は開けてこないのではないかと思ってみたりもするわけで。

逆にいえば、世界の最先端で老人大国への道を進んでいるニッポンは、
「なんか知らないけど、やたら元気で楽しそうに長生きしてる老人ばかりの島国」というある種の21世紀的ユートピアを作り出し、繊維も鉄鋼も自動車も電気製品も輸出できなくなった時に、最先端として売り出すことができるではないか、とプラグマティックというかペシミスティックというかアイロニカルというかな夢想も浮かんでくる。

当然、医療というのは「治しゃいいんだろ、治しゃ!」ってところからステップアップする必要が出てくる。そこに先のような考えもあるのではないかと思うのだな。そういう意味でこれから大学の医学部には、「医療倫理学科」とか「医療哲学科」というのが作られるべきなんだろうが、法律が、役人は悪事もミスも犯さない存在というのを前提に作られるのと同様、医者は優秀なんだから、そこらへんも教養課程の授業でちょちょいとできるっしょ、という発想から抜けない限り無理なのでしょう。そして、それはある部分、医者の無能さを自ら認めることになるわけですから、ちょいと難しいかしらね。事実、医師国家試験にパスするだけで、ほかの国家試験免除で取れる資格というのもあるわけで、そこらへんは司法試験も同じ。

でもそういうの作る大学があれば、それはそれで評価の対象になると思うんだけどねぇ、この構造不況業種の中で。教員養成大学に「ゼロ免」課程があるように医者にもあっていいという大学はないものかしら。別に医師免許も取れるってことでもいいとは思うけど。

この文章も最初にまとめがきて、そして最後にもう一回繰り返してくれているのだから、そこが一番言いたいところ。後はそれに肉付けしていけばいいだけですね。肉付けというのは、主張=論を支える根拠=例の部分ですが、字数に応じて例はカットしましょう。

まず冒頭は「世の中」の「輩」の話。「やから」と呼んでいるくらいだから、否定の対象です。ここのどこがどうしてどのようにダメなのか、否定して筆者は何を肯定していくのかを追いかけていくのですね。すると、直後に

私たちは領域的にも力の大きさ的にも国民国家=ネーションステイトを超える主体を持たない。私たちが世界を変えようと思ったら、ネーションステイトをハンドリングするしかないのだ。

とあり、さらに、その「ハンドリング」についての主張が続きます。文章は尻取りみたいに話題が続いていくのですね。

 私はかねて「自立した国民として思考停止に陥らず、ステイト(機構としての国家)をハンドリングせよ」と呼びかけ……

とありますので、これは筆者の主張としておさえて置きましょう。話題の中心は、さっきの「尻取り」の対象「ハンドリング」ですね。これってどういうものなのか、どうやればいいのかを追いかけると、

 愛国者は、国家が社会を、ステイトがネーションを守らないなら、国家=ステイトに文句を言い、革命せねばならない。現に国家への命令である近代憲法は、国民とナショナルヘリティジ(国民財産)を守るよう厳命している。
 国家が守るべき社会とは何か。…今日のそれは一定の地理的領域内の「生活の事実性」に拡張されなければならない。
 社会がボーダーレス化したならボーダーレス化した社会における「生活の事実性」から国民が得る利益を守るべく、国家は機能しなければならないということだ。国家がそうした責務を果たすように国民が監視し、操縦する必要があるのである。

とあります。まさに藤原帰一の文章にあった以上に、主体的に「守れ!俺たちを」というわけです。

これについては私も異論は無いのですが、問題は「俺たち」の「範囲」をどうするか?「守る」とは「誰」から「どのように」守るのか?ということが、当然ながら、人によって違うということではないでしょうか。たとえば、「満州は日本の生命線」という言葉がリアリティを持っていた時代状況もあったし、「国体の護持」に拘ったがために、敗戦の受け入れは遅れ、原爆や満州の残留孤児など、今に続く問題を招いたわけですから。
 閑話休題。
 さて、このハンドリングの一つの手法、アイデアとして宮台は亜細亜主義の見直しを提案しています。これも前から「主張している」のですから、おさえる必要があります。本文の最後にもこれが「導きの糸になる」と繰り返しているこの論文のキモですね。この亜細亜主義とはどのようなもので、どこが筆者が主張するほどハンドリングにとっていいのか、なぜ今亜細亜主義なのか、ではどうやればそれが実現できるのかといった点を明らかにしないと読者はついてきません。ですから、我々はそれを追いかける必要があります。まず、この亜細亜主義の発端としては、グローバル化に抗する手段という側面があることを述べています。

アメリカ一人勝ちのグローバル化に抗すべく、弱者連合の思想である亜細亜主義の本義が活かされる時が来た

とあって、その後に亜細亜主義の属性が語られ、それをまとめていく部分が続きます。もちろん、「まとめ」は押さえましょう。

ことほどさように、亜細亜主義には、ナショナルなものを相対化してもなお残る「国民国家をいかに操縦するか」という課題に向き合おうとの意趣がある。…「文化を下敷きにした軍事経済ブロック」といえば…ポイントは欧州が突出した盟主を作らないよう努力した所。…問題は、天心の言う「亜細亜は一つ」の「一つさ」をどう構想するか…幸い今のアジアの若者らには、漫画・アニメ・音楽等のサブカルチャー・ネットワークが存在する。つまり、現実的基盤がある。…繰り返す。私たちが自立した国民として思考停止を排し、国家を操縦するべき時が来た。亜細亜主義が導きの糸となろう。

とつながります。一気にやってしまいましたが、ハンドリングの方向性として亜細亜主義があり、それがいかによいか、が筆者の主張ですから、それを追いかけるのですね。「ことほどさように」「ポイントは」「問題は」「どう構想するか」「繰り返す」といった重要表現がきちんと押さえられれば大丈夫だったはずですよ?

では、まとめてみましょう。

1 私たちは国民国家=ネーションステイトを超える主体を持たないから、
2 自立した国民として思考停止に陥らず、
3 社会における「生活の事実性」から国民が得る利益を守るように、
4 ステイト(機構としての国家)をハンドリングするしかない。
5 国家がそうした責務を果たすように国民が監視し、操縦する必要があるのである。
6 そのために、「国民国家をいかに操縦するか」という課題に向き合おうとの意趣があり、
7 グローバル化に抗する、文化を下敷きにした軍事経済ブロックとしての、
8 弱者連合の思想である亜細亜主義が見直されるべきだ。
9 そのポイントは突出した盟主を作らず、
10 若者らのサブカルチャー・ネットワークを現実的基盤として一つになることだ。 297字

【論壇時評】藤原帰一
今回の話題は戦争に反対する平和論の根拠。これはもうテーマとして分かりきっているのだから、いちいち載せなくてよい。字数に余裕があれば、「平和論の根拠に付いて検討したい」を入れるとよい。
 その先は、各論者の意見を引用しながら、筆者がコメントを加えていくパターン。引用は例なので、筆者の主張のメイン部分と密接に結びついている時以外は要約の対象からはずすとよい。ただし、これも字数次第。文章は字数という器に合わせて情報量の盛り込み方を変えていかねばならないものなのです。
 まず、筆者は「平和論の柱の一つ」として「国家と社会を対立関係から見る視点」を紹介する。この補足意見、説明として提示引用される例文が古関彰一の「人間の安全保障論」だが、これには筆者自身がすぐに異議を唱える。

だが、「人間の安全保障論」は、必ずしも「国家安全保障」に代わるものとして議論されてきたとはいえない。市民の方が外敵から守ってくれるよう政府に求める時、国家安全保障と人間の安全保障が対立関係に立つとは限らない。なによりも、民主主義のもとでは、国民の安全を図ることは、政府の責任ではないのか。

とあって、この問題提起は、後半に続いていきます。ですから、繰り返されるということは重要と言うことですからここは残す候補。

 その次は、「もちろん」で始まる太田昌秀の引用と香山リカ・斎藤貴男の対談ですが、ここは譲歩部分。だから、上記の問題提起に対する反論への目配り部分となります。つまり、あまり重要ではない。字数に余裕が無いのでバッサリ切るしかないでしょう。大事なのは、

「だが、今はそうとは限らない。」以下です。「そう」の指示内容を明らかにするために、さっきの「バッサリ」といった部分を少しだけ引用してもいいとは思います。これも字数と全体バランスを考えて判断です。
 ここの後ろは小熊英二と上野陽子の引用で、先の香山リカいうところの「ぷちなしょ」な若者たちから一歩進んだ、「サイレント保守市民」を取り上げます。ここも例なので、これ自体は要約対象からはずして結構ですが、こういった人々が、国家に対して自分たちを守れと訴える世論の主体です。これは宮崎哲哉いうところの「パラサイト市民」、すなわち国家に寄生する依頼心の強い国民ということになるのですが、こうした声が主流となりつつある時の平和論は今までのままじゃ「サヨク」「アカ」ということで頭っから受け入れられない。じゃ、どうする?ってのがこの文章の主題なわけです。ですから、その後で先ほどの意見の再録があり、それが今までの平和主義とどういう関係になるかというこの文章のキモ部分につながっていくのですね。ということで以下の部分は残したい。先ほどの、ほぼ同内容の部分とまとめることで採用すればいいでしょう。

 国家はちゃんと国民を守るべきではないかと世論の方が訴えるとき、国家対社会という図式に頼る平和主義は根拠を揺るがされてしまうだろう。

これは、この後の軍拡路線の根拠になるので、

国家が社会を統制したからでなく、社会の要請に応え、あるいはその要請を利用して軍事手段に頼る政治が広がろうとしている

につながっていきます。

 さらにこの流れは、次の杉田敦のいう「生活保守主義」とつながっていき、最後の筆者の主張のまとめへと雪崩れ込んでいくという構成です。もちろん、最終段落がこの文章のキモですから、ここを中心にまとめましょう。

 では、今までにピックアップした部分をまとめてみますね。

平和論の柱の一つは、国家と社会を対立関係から見る視点だが、終戦直後とは異なり、現在のように、国家は国民を守るべきだと世論の方が訴える時、この対立の図式に頼る平和主義は根拠を揺るがされてしまう。国家が社会を統制したからではなく、社会の要請に応え、あるいはその要請を利用して軍事手段に頼る政治が広がろうとしている。生活を守るため戦争を支持する世論と、その世論に支えられて戦争を進める政府といった国家と国民の結合が生み出す最大の被害者は、じつはその国の外にいる戦争の被害者たちであり、自分たちが被害者となる危険が少ない時、これまでのような平和主義に頼るだけでは、この構図に代わる構想を立てることも難しい。299字/300字

また、便宜的に分けてみます。

1:平和論の柱の一つは、国家と社会を対立関係から見る視点だが、
2:終戦直後とは異なり、現在のように、国家は国民を守るべきだと世論の方が訴える時、この対立の図式に頼る平和主義は根拠を揺るがされてしまう。
3:国家が社会を統制したからではなく、社会の要請に応え、あるいはその要請を利用して軍事手段に頼る政治が広がろうとしている。
4:生活を守るため戦争を支持する世論と、その世論に支えられて戦争を進める政府といった国家と国民の結合が生み出す最大の被害者は、じつはその国の外にいる戦争の被害者たちであり
5:自分たちが被害者となる危険が少ない時、これまでのような平和主義に頼るだけでは、この構図に代わる構想を立てることも難しい。


 筆者は、現代の「健康」のテーマは、「どうすればQOLを高く保ったまま人生を過ごせるか」だと述べている。確かに、最近はテレビでも健康番組が人気で、取り上げられた食品や健康法などがすぐにブームになったりしている。これは、長寿化を背景に、たんに長生きするだけでなく、いかに美しく、若さを保つことに関心が集まっているかの証拠であろう。

しかし、いかに美しさを追い求めても、年齢とともに身体が衰えていくのは自然の摂理である。とすれば、身体が衰えても「生活の質」が落ちないような精神の充実をこそ我々は目指すべきではないか。先のような例は、「健康」指向というよりも「若さ」指向というべきで、まるで老いや病を、本来の自分ではない「害悪」のように考えている気がする。しかし、もしそうなら、必ず老いる我々は「本来の自分」では無いものに向かって生きていることになり、生活の質が高まるどころか、長生きは苦痛でしかない。また、医療も老いず、病まず、死なない存在を目指しているわけではない。そのような存在があるとすれば、それはもう人間とは呼べまい。そのような健康観ではなく、子供から老人まで、それぞれの年齢に合った日々の生活が充実することこそが本来の「健康」だと思う。

 私の親戚のお婆さんは、もう八十歳を超えて足腰も弱っているが、毎日、畑仕事をしながら仲間と手作り商品の店に出ている。地元の素朴なお饅頭などがお客から喜ばれ、そうして喜ばれることが生きがいであり、健康の秘訣だと言っていた。本来の「健康」とはこのようなものではないのだろうか。

 医療の現場においても、治療効果を重視した「病と闘う医療」だけでなく、これからは、患者一人ひとりの生きがいや生活についてともに考え、よいよい生き方を作る協同作業としての「折り合いをつける医療」が必要になってくると私は考える。           
〈ナショナリズムを問い直す〉青木保 Nov/04

まずは、評論お得意の「現状分析」から。
この「現状」から問題点をすくい出して問題提起していくのが評論の得意技であります。

で、この最初の現状で筆者が言っているのは
【ナショナリズム、ナショナリズムって最近うるさいけどさぁ、確かに目立ってるよ。だけど、よく見るとその中身はバラバラじゃん?】
ってことです。そこから、現代のナショナリズムの特徴へと話はなだれこみ、それをどう評価し、位置づけるかっていうことになるわけですね。

 ここまでをまとめますと、
【現代のナショナリズムは細分化されたもので一様ではない】
【いずれにせよ、本質的に閉鎖的、排他的で危険】
【だから、ほんの小さな動きであっても、注目して原因を明らかにする必要がある】
ということになりましょうか。ここまでは前置きといってもいい部分。ほんとに筆者が言わんとすることはこの後の、「ナショナリズムをめぐる議論」についてです。

 この議論は二点ありますね。前半が、サミュエル・ハンティントンの911前後で話題になった、いわゆる「文明の衝突」論について。後半は「他方」以降の「多文化主義」についてです。

「文明の衝突」論。この言葉くらい知ってますよね?知っている人は知っている。知らない人は知らない。両者の間には深くて暗い河がある。
 何がいいたいかというと、これから多分日本社会は、ますます「アメリカ的」になっていくだろうということ。

 ベッカムあたりをイメージした「メトロなんちゃら」だっけ?日本でもそういうのんを目指そう!みたいな話で使われてますが、ブラピやベッカム的な、都会に住む収入もスタイルもいい人って、実は、地方の、治安が悪い所に住む収入の低い人はジョギングも健康的な食のスタイルも選択出来ず、カウチでポテトやマックを食べては、ケーブルテレビの説教師の演説を刷り込まれ、志願兵として退役後の進学や就職を夢見つつイラクへ送られるという人生の対極にあるわけです。

 つまり、生活レベルの格差、端的にいえば、収入の格差、それに教養レベルの格差やマナーなども含めた社会的常識の格差がどんどん広がっていくだろうということです。そして、それは、ある種の階級社会の誕生につながり、その階級間の流動性が低くなる恐れがある。つまり、階層の固定化ってやつ。

 これはヤバイです。どこにいってもそれなりに安心してものがいえる=話が通じる、メシが食える、だいたい、どこでも「行ける」というのが崩れる恐れがある。生きにくいですよ、これは。海外に旅行したり、生活して街をふらついた経験のおありの方は分かるでしょうが、簡単に言えば、東京にもニューヨークのサウスブロンクスやロンドンのブリクストンのような街ができるってことです。

 もちろん、これは同質性の高い社会の実現を意図するものではありませんが。
 階層間格差が広がり、各階層の流動性が低いと社会としては効率が悪い。そういう意味で生き難いと思うのです。
 極端に言えば、バカ殿であっても殿様、能力あっても小作人という時代から「藩閥政治は親の仇でござる」に移行し、学閥の弊害が薄れてきた昨今、「総中流」の時代が終焉を迎えるというのはどうかと思うのです。「総中流」がいいとは思いませんが。なんにせよ、差異を求めるのは人間の業だとしても、社会全体がそのカルマに縛られるのはねぇ~、と。

 効率の悪い社会は停滞することは、歴史が証明しているわけですが、たとえば、これは既に様々なディスコミュニケーションの形を取って現れつつある気がします。

 先日、電車の中で聞くともなしにこんな「会話」が耳に入ってきました。

少女1「ねーねー、趣味とかなんなの~?」

少女2「う~ん、音楽とか?」

少女1「あ~、あたしも超好きぃ、何聴くぅ?あたし、オレンジレンジに今、超ハマってるんだけど」

少女2「うぅん、マリリンマンソン」

少女1「ふ~ん。ってゆ~か、今日、超混んでない?(流すのかよっ!)」
 
 とまぁ、どちらも「音楽好き」な「初対面に近い」同世代の会話なのですが、私ならオレンジレンジもマリリンマンソンもミュージックシーンでどのような位置づけなのか理解可能ですし、まぁ、マリリンマンソンとオレンジレンジじゃ大分違うわなぁとは思いますが、とはいえ、知らなければ、それってどんなの?となるんですが、同じ「音楽」といったって自分の好みのツボからはずれてしまうと、そこから先は踏み越えないし、はいれない、あるいは、部外者は、いれないという感じがしてなりません。
 正確には、先に述べた社会格差とは異なるのですが、いずれにしてもこの「格差」を埋めることが快適な社会を作る一歩のような気がしてなりません。

閑話休題。
「ナショナリズムをめぐる議論」の話題の前半は、
「ナショナリズムをめぐる議論で注目すべき傾向が」以下で始まります。
先に述べたようにハンティントンを例とする「文化の政治化」です。これの属性は「『世界の秩序』を『文化の系統』で捉えようとする極めて戦略的な理論」となります。
 後半は、「他方」以下の、「多文化主義」です。これの属性は、「一つの国や…据えよう」ですね。
 この二点説明した後で、最後に筆者の立場からこれからの世界のイメージをどう捉えるべきかについて意見が表明されて終りです。最後がもちろん最重要ですから、要約文ではここに至るまでの流れを作る様にします。

 では、要約例
現代のナショナリズムは、細分化されたもので一様ではないが、いずれにせよ、本質的に閉鎖的、排他的で危険なものだ。ナショナリズムをめぐる議論で今日優勢なのは、ハンチントンの「文明の衝突」論にみられるような、「世界の秩序」を「文化の系統」で捉えようとする極めて戦略的な「文化の政治化」だが、他方、一つの国や社会に存在する複数の民族の「文化的アイデンティティー」を尊重し、「多文化」であることを基本に据えようとの「多文化主義」も大きな動きになっている。世界は「多文化」という現実と常識を基本に、平和と協調を考え、「文化の政治化」を避けるべき時代を迎えており、それこそが新世紀の人間の生きる術なのである。297w


次に宮台の憲法論。
私は全面的にこれに賛成するわけではありませんが、先の自民党の改憲案などをみると、ここに書かれてある憲法的原則に関する無理解が政治家、マスコミ、そして人々にもあるような気がしてなりません。「アメリカに押し付けられたから気に食わない憲法」を「アメリカの要請に従ってその意に添う形で」改憲するということ自体、論理的に破綻しているのですが、世の中には非論理的な話に感情的に乗せられる人が多いのですね。「無理が通れば、道理が引っ込む」「ウマイ話には罠がある」という世間知もあわせて覚えておきましょう。

さて、この宮台の論文は最初にサマリーがついていて、最後にもう一度まとめられていますから、それに従ってまとめていけばいいでしょう。

日本人の憲法をめぐる二重の困難の第一は、私たちがいまだに憲法的原則を理解せず、憲法を活かせないことで、憲法が統治権力としての国への命令であることが理解されず、憲法意思も発揮されない。法と道徳の分離の無理解も横行している。第二の困難は、21世紀が解決すべき多くの課題が憲法的原則では対処できないことで、たとえば、米国の振る舞いや憲法を口実にした戦争を国際法システムや国連がチェックできなくなった。さらに、統治権力が国内の憲法に服するだけでは解決不能なグローバルな問題もある。日本人は、憲法的原則とその射程を理解し、憲法を極限まで利用した上で、それだけでは解決不能な現今の諸問題を理解し、対処すべきだ。299w

一気にやってしまいましたが、宮台の文章は箇条書きっぽいというかアングロサクソン的なので【甲は乙だ。乙の第一は@@で、第二は@@、例は@@でさらに丙の問題もある】式の書き方になっています。論の流れを中心にまとめ、論が理解できる程度の例を字数に応じてつけたしてやれば、書きやすかったのではないでしょうか。


役に立つ、そして「高くないw」参考文献
『いま私たちが考えるべきこと』橋本治
『〈私〉の愛国心』香山リカ
『社交する人間』山崎正和
『二十世紀』橋本治
『ことばとは何か』田中克彦
『まともな人』養老孟司
『不自由論』仲正昌樹
『市民の政治学』篠原一
『いちばん大事なこと』養老孟司
『「みんな」のバカ!』仲正昌樹
『20世紀とは何だったのか』佐伯啓思
『昭和が明るかった頃』関川夏央
『本読みの虫干し』関川夏央
『クレオール主義』今福龍太
『日本の無思想』加藤典洋
『お金に「正しさ」はあるのか』仲正昌樹
『「しきり」の文化論』柏木博
『いまひとたびの戦後日本映画』川本三郎
『東京ファイティングキッズ』内田樹
『多文化世界』青木保
『差異と隔たり』熊野純彦
『人生は五十一から1~5』小林信彦
『現代思想のパフォーマンス』内田樹
『安心のファシズム』斎藤貴男
『意識とはなにか』茂木健一郎
『やぶにらみ科学論』池田清彦
『不美人論』陶智子
『デモクラシーの帝国』藤原帰一
『哲学はなんの役に立つのか』西研・佐藤幹夫
『お姫様とジェンダー』若桑みどり
『都市と日本人』上田篤
『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』中山元
『サヨナラ学校化社会』上野千鶴子
『デジタルを哲学する』黒崎政男
『エロス身体論』小浜逸郎
『国家の役割とは何か』櫻田淳
『リージョナリズム』丸川哲史
『教養としての「死」を考える』鷲田清一
『日本人の歴史意識』阿部謹也
『わたしはどうしてわたしなのか』大庭健
『民主と愛国』小熊英二
『日本人の境界』小熊英二
『オリエンタリズム』エドワード・サイード
『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン
『地中海』エルナン・ブローデル
『世界史への道』石原保徳
『楽しいナショナリズム』島田雅彦
『批評理論』丹治愛 編
『文学理論』ジョナサン・カラー