明治天皇の御不礼発表と同時に博文館が談話を集め、一部を改変して発行したものと思われます。当時の新聞はある程度不正確なものでも平気で記事にしています。この中でいくつか談話を書いて
いくことにします。

〇一部言葉を変えて表記しています。

〇船越衛 1840-1913 旧広島藩士 元老院議官 男爵

 

●王政復古の後、一時的に騒乱の渦中に投ぜられたので、すなわち慶応四年正月三日には鳥羽伏見の戦争が起こり、続いて奥羽越後の征伐となり、翌明治二年には函館の賊徒追討となったが、これらは同年五月に至って平定に帰したのである。

 

●しかして、函館の賊徒平定後、種々の新政をおこなわせらるることになったが、その第一着手としてはまず我が国の兵制を改革せねばならない。従来は各藩が随意に種々の兵制によって兵を調練していたのであるが、それでは兵の統一を図ることができぬ。よって兵の統一を図るには、まず朝廷の兵を編成しそれらを教師の兵として漸次に諸藩の兵を改革せねばならぬが、それには第一に善良なる士官を養成しなければならぬ。

 

〇各藩が藩主の命によって動く軍隊ではなく朝廷の兵を構成せよといっています。各藩の軍法が違っていたり、言葉や号令が異なっていては統一した軍令はできないということです。この点は山県有朋が明治初期に尽力して近代的な陸軍を育てました。

 

●この士官の養成については二種の方法があった。すなわち幼年学校と青年学校とであった。幼年学校は語学より教えて行って順次士官にしたてるのである。青年学校の方は原書は用いず翻訳書を用いて、速成に士官を作らんとする方針であった。

 

●しかして、幼年学校の方はまず語学はフランス式に拠るのであるが、あたかもよし維新前において幕府は横浜に語学校をもうけて子弟を教授しておったから、これを用いることにして、明治二年にさらに大阪に移した。

 

〇幕府はフランスと幕末に外交関係を持ち、陸軍の教育にフランス士官を軍事顧問として迎えています。

 

〇まず、フランスの教師から学問を習い、幕府のフランス語を理解する旗本を教師として利用することになります。翻訳した教科書を使うようになるのは明治十年代の後半ごろになります。