〇明治天皇の御不礼発表と同時に博文館が談話を集め、一部を改変して発行したものと思われます。当時の新聞はある程度不正確なものでも平気で記事にしています。この中でいくつか談話を書いていくことにします。

〇一部言葉を変えて表記しています。

〇牧野伸顕 1861-1949 男爵 大久保利通次男。

 

●討幕を仰せ出されてからは、徳川将軍は閉居して謹慎を表し、新政府の施設は未だ整わないという際である故、江戸はほとんど無政府の状態であった。かように大政復古し、徳川氏は蟄居したが、何分、皇室ということについては、ようやく歴史の上で知るくらいに止まっているから、この際江戸にに行幸し御親政で民を恵という仁愛の政治を布くということを理解せしむるという政治上の必要から東幸は当時の政治家に適切に感じられた。

 

〇白川以北の東北諸藩の動向を監視するには東京へ遷都する必要があったのだろうと思います。

〇当時は東京を「とうけい」と訓じ、京都は「西京 さいきょう」と訓じています。

 

●これに反して宮中ことに後宮では御幼年の陛下をほとんど敵地、いわゆる東夷の地に奪い去られるように感じて反抗を起こしたのである。その反対の事情には政治家も大いに苦しめられたものと見えて当時木戸侯から岩倉公にあてた手紙の一節に(口語文に直しました)

 

●婦女子の扱いはただ正論をもってのみではいけないことで、まして皇国には婦女子への学問や教えもないことゆえ、その状況を察し、そして愛情をもって教え、誠を尽くして行えば必ず大いに覚るものにて、まず、この度御東行遊ばされ御安着されたので、東の土産物でもたくさんお送りください。武士のような流儀のみにて世間を見ていては、必ずその実はあがらないのです。聖人ですら人によってあしらえが違うように存じます。

 

●この手紙は山本から岩倉公に取次ぎを願ったもので、つまり土産物でもたくさん送って、後宮の反対を鎮める外ならぬ。なおこれより少し以前になるが、朝議いよいよ討幕に決したので、どうしても全国を挙げての騒ぎとなる故、御親征あらせらるることとなり、大阪に行幸あらせられたが、この時も賢伸後宮の反対であるが、この際大久保侯はこれを機会として宮中の旧習慣を改革するの建議をなしている。

 

〇天皇は御所におわさねばならぬ。という旧守派をなんとか改革しなければということも遷都の狙いの一つだと思います。明治天皇は全国の巡行ばかりでなく気軽に東京に行幸されています。つまり遷都によって時代を変えたことになります。

 

☆阪神タイガース2位確定。

4月からほとんど負け越しなく前半戦の負けを取り返した岡田の采配は立派でした。佐藤輝のミスで負けた試合は多く、これを取りこぼさなければ優勝もあったと思いました。

 

★自民党総裁選終わる。

石破さんは総理にできないといっていた旧安倍派や菅グループは手のひらを返して石破さんに入れてしまいました。

高市さんは石破さんよりも総理にしてはいけない人ということになりました。

派閥解消といっても結局派閥の動きで決まりました。しかし、大臣の顔触れはことさら無派閥を集め、岸田内閣のモヤモヤした霧を晴らしてくれるという国民の気持ちを裏切ったように感じます。石破内閣は本当に短命に終わるのではないかと感じます。