〇星亮一 幕末期の会津藩に関する著作多数。

 

●容保はすぐ馬にまたがって御所に駆け付け、お見舞いを申し上げたところ病名は疱瘡に決定したとのことであった。容保は御所の警備に万全を期するように家臣たちに申し付けその日から毎日、参内して様子を伺った。熱も下がり疱瘡は丘疹期に入り、とうげを越したと思われたが、二十五日夜半になって容態が悪化、吐き気を催され痰に血が混じるようになった。

 

●医師団が必至の看護にあたったが、次第に疲労の色が深くなり、脈も弱くなり、顔に紫の斑点が現れ、手足が冷たくなってきた。容保は愕然とした。まさかという思いだった。天皇は護浄院の湛海僧正の加持祈祷もむなしく二十五日の亥の                                                              半刻(午後十一時頃)三十六歳を以て崩御された。

 

〇回復に向かわれたと医師団が診察してすぐに悪化し崩御された。ここらが毒殺説のいわれになったのでしょう。

 

〇もし、孝明天皇が七十までご存命ならば、日清戦争あたりまで実見することができたでしょう。しかし、攘夷思想の強い天皇が富国強兵の近代化を決断されたかというと疑問が残ります。イギリスと結託して洋化政策を推進した薩長にとって孝明天皇はまことに都合の悪い存在でいつかは排除したのではないかと思います。