〇幕末明治初年に奥羽越列藩同盟の武器商人として活躍したヘンリースネルとエドワルドスネルの兄弟がいたことはあまり知られていない。慶応四年六月の新潟港陥落後にスネルはどこへ行ったのかわからなかったのですが、消息の描かれた本を見つけたので、書いていきます。

 

〇スネル兄弟はどちらも新潟港へ来ているのですが、兄のヘンリーは会津藩お抱えになって、武士の服装で活躍したので、会津のスネル、弟の江戸ナルドは越後で活躍したので越後のスネルと私は区別しています。

 

〇この兄弟はよく史書に出てくるのですが、どちらのスネルなのか混同してしまう例が多くあります。

 

〇一部旧漢字や言い回しを現代口語に直しています。

 

市島春城「春城随筆 余生児戯」 昭和十四年 冨山房刊

 

●明治四年頃、自分が新潟学校の少年時代スネルという外人が新潟にいた。古町の表通りに木造の洋式建築があってそれに住していた。

 

〇新潟学校 学制以前に新潟県が設置した専門学校。県内の地主の子弟などが入学していた。

〇古町 現在も残っている字、新潟市の中心部。

 

●この建物はペンキも塗らない渋引きの板普請であった。時々背の高い主人が伴って街頭を徘徊するのを見た。これが武器を輸入して会津庄内などに供給した商人で官軍が新潟に入った時打ち放した大砲もこの男の輸入にかかるといわれたことをあとから明治初年発行の小雑誌で知ったが、くわしいことは一向に知ることができなかった。

 

〇大砲を打ったのは弟のエドワルド・スネルと思われます。

 

●然るに、木村毅氏の書いたものを見て初めてこの男が以外の山師あって、会津藩に重宝がられていたことなどが、相当詳しく分かった。

 

〇木村毅1894-1979 明治文化研究の専門家。

 

●この男は銃器弾丸を売り込んだのみならず砲術を教えたともある。大倉喜八郎などはこの男の方へ出入りして武器売買の呼吸を覚えたのだといわれ、長岡藩の河合継之助にも接近して武器を用立てたともいわれ、武器の仕入れに上海を往復したこともあり、十五代将軍徳川慶喜の弟昭武が帰朝の帰途随伴の渋沢栄一に会って北海道を共和国として徳川氏を大統領にすべしなどと建策して渋沢氏にしりぞけられた逸話がある。

 

〇大倉喜八郎1837-1928 越後新発田の出。武器商人として財をなし、後に大倉財閥となった。

 

〇この項のことは弟のエドワルドのことと思われる。

〇渋沢栄一の回想録「雨夜譚」にエドワルドの記載がある。後で紹介する予定です。