〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●何分居士生前の交際があらゆる方面、あらゆる階級に渉っていたので、ひとたび薨去の報が伝わるや、上は王侯貴族下は乞食非人にいたる種々雑多の弔問客が引きも切らずに出入りする。ことに宗教界に因縁が深かったから、仏教各会派の僧侶は勿論神官牧師が混交連続して、各様各式の弔祭を行う状況は真に奇観の極みであった。

 

●それより二十二日午後一時、四谷仲町の邸を出棺し,宮城前を過ぎる時畏くも、聖上特に高殿に登御遥かに目送あらせられた。同三時全生庵へ着棺。五仏事を以て葬儀を執行した。

 

●葬儀後全生庵墓地内の深さ二丈竪穴に埋葬が終わったのが同七時である。当日篠突く大雨天であったが、会葬者は無慮五千人に及んだ。また当日種々の事故もあった。とりわけ、村上新五郎氏は殉死の恐れがあるので、終日四谷警察署へ預けられ、門人粟津清秀氏は全生庵鎮守山でひそかに追い腹せんとして幸い発見されて事なきを得た。

 

●しかして、門人鈴木寛長氏は落髪して棺後に従い全生庵にとどまり、三年間墓側に持していたのである。

 

〇鉄舟居士の真面目は今回で終わります。