〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●ことに債権者が高利貸しであったから少しの容赦もせぬ。居士はついに家資分散の処分をすべく、決心された。時に勝安房氏この事情を聴きこみ駆けて徳川家へ申告に及ぶ。徳川家では捨て置けぬとあって早速金一万円を贈られた。

 

●か、堅く居士は辞して受けられない。すると勝氏は、君の家資処分は徳川家の恥辱であるから事態は萬許されぬと強談したので、居士はよんどころ無く恩借金として追い掛けの債務の果たし、爾来薨去の月まで毎月金二十五円ずつ徳川家に完納された。

 

●かかる大厄害をかけておきながら、石坂氏は平然として居士の家に出入りして、その惨状を目撃しつつ嘯いている。家人はこの体を見ていかにも不平でたまらぬから、石坂氏と義絶するべく居士に要請した。

 

〇二十万以上の負債を鉄舟に与え、家にも平然として出入りする石坂。いかにも幕末期の破滅型の武士を見るようです。

 

●ところが居士は懇懇とこれを諭して石坂がもし、俺を倒さなかったら、その代わりに必ず誰かを倒したのだ。が、俺を倒したので、誰かが助かっているのである。そして、俺が石坂を手放したら、それこそ何をしでかすか知れぬ。マァ我が一家のことは相互いに我慢すれば済む。

 

●困難も人の所為だと思うとたまらんが、自分の修養だと思えば自然楽地のあるものだといい。しかして、石坂氏を遇すること依然と変わらなかった。

 

●またある時渡辺義方という者が、居士の偽書、偽印で二万円を詐取し、居士その責任を負って弁償された。また、旧忍藩主松平子爵家の危急に際し、金八千円を投げだし、かつ屏風千枚を揮毫して贈られた。これもとより、何の縁故もないただ一片の義気に出たことであると。

 

●ちなみに居士は前記の大債権を漸次返済されて、その薨去の時には唯徳川家の恩借金のみ未了であった。

 

〇鉄舟は禅の修行のままに生き、あえて自分の進路を妨げるものを排除せず、ひとつひとつ乗り越えていったといえます。勝のような智者にはできないことです。

 

〇幕末維新の人物には多額の借金を負っても平然としている者が何人もいます。山県有朋、後藤正二郎、副島種臣などがそうです。これらの人たちは新政府の重鎮でしたから、藩閥が助けうやむやにしています。