〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●居士は勲功調査の召しに応じて宮内省へ出頭されしに三日のこと松岡萬氏が勝氏勲功口述の一件を聞きこんで大いに憤り、勝のごとき卑劣漢を生かしておいては、我等旧幕臣の恥辱であるから速やかに成敗してくれんといきまいた。

 

●これに石坂周三、村上新五郎等の諸氏相和して、暗に大騒擾を引き起こさんとした。居士は早くもこれを感知して諸子を制して、予は最初より功名に用はないのだから、ソハ勝に譲るつもりである。

 

●ところが今、貴公らに騒がれてはその旨意が立たなくなり、ツマリ世間からは勝と予との功名争いとみなされる。マァこんなことは天に一任して人間は手出しをせぬがよいといわれたので、諸子は胸をなでつつ差し控えた。

 

〇勝は薩摩藩との交渉を自分単独の功と論じた。山岡の一党は鉄舟から伝聞した内容と異なっていることに腹を立てたわけです。

 

〇勝は後に華族に任じられるときも「子爵」に不服を漏らし、一級上の「伯爵」に任じられます。山岡は「子爵」にとどまります。勝は名誉好きです。

 

●松岡氏はその後政府が居士を勲三等に叙したとて大いにいきどおり、今度は一人でひそかに岩倉右大臣を刺すべく、匕首をふくんで右大臣を訪うた。右大臣は一見してその気勢を察し、貴公のごときは元亀天正の頃に出たらば、りっぱな大将であったろうと卓上一番話された。

 

●やがて茶菓を供して丁重に待遇されたので、松岡氏は拍子抜けしてむなしく帰った。しかして、その夜つくづく無謀の行動を悔い、居士に申し訳なしとて喉を刺し貫いて自殺を企てた。が幸いに脈管をはずれて一命はとりとめた。後日、右大臣が居士に先だって松岡がやってきて実にスゴイ様であったと語られた。

 

〇石坂の覚悟も、ものすごいです。幕末明治初期には武士の命は本当に軽いもので、名誉のために命を投げ出す人がいくらもありました。

 

〇居士を勲三等に叙した。これにも一つの挿話があります。井上馨が宮内庁の使いとしてきたとき、貴殿に勲三等を賜ります。といって一悶着し山岡は拒否します。その時の対話

「おれが勲三等なら、あんたは何等なんだ」

「わたしは勲二等を賜りました」

「なんで違いがあるのだ」

「私は国家に功があり、顔にも刀傷をうけています」

「なにをいう。貴殿の刀傷は私闘によるものではないか」

「戊辰の年に薩摩藩と交渉した時には、あんたはどこにいた   

 のだ」

「そのような交渉があったのですか、ぜひお聞かせください」(対話は大意です)

 

〇このように戊辰の年の勝や山岡の工作は限られた人にしか知られませんでした。岩倉は承知しています。だんだん明治も過ぎるにつれて勝と山岡の名が広く知られて疑問が広がったわけです。