〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●そこへ、はからずも山岡鉄太郎の名刺が舞い込んで、両者の初会見となり、居士もその企図を披歴して勝氏の意見をたたかれ、勝氏は居士の胆略を認めて同意を与えた。そこで居士はその翌日六日出立。なのか大総督府着。西郷氏と折衝して朝命四か条を奉じ、八日帰参。慶喜公幕府当局へその次第を報告された。

 

〇この記述が事実ならば、勝は山岡との会見で意思を確認しあい、幕府の大勢が恭順に決まったことを総督府に伝える特使として山岡を即座に起用したことになります。勝は孤立していたので、まわりに信頼できる人がいなかったのでしょう。

 

●幕府はとりあえず市民を安堵させるべく市中に高札を立て、幕府恭順の意思が朝廷へ通達せしとを表示した。ついで、十四日居士はさせに勝氏と共に高輪薩摩藩邸に至り、西郷氏と会見して先に拝受した四か条の実行を誓約されたから、西郷氏は即座に江戸城総攻撃停止の号令を下し、ここに維新最後の大難局は無事解決された。

 

〇江戸への総攻撃の停止は、別の面からは外国公使の勧告があったからです。たしか英公使パークスだと思いますが、国際公法からみれば、恭順をあらわしている敵に対して攻撃を一方的にすれば、列強各国の非難を受けるだろうと意見されます。新政府を目論む薩摩にすれば、外国からの承認を得られるよう総攻撃を停止した面があります。

 

●この時居士と勝氏との帰着点がまったく一致したのでそれより両者は修正無二の知己となった。そのただならぬ交情は私事はしばらくおき、明治五六年以降の政局に対する両者唱和の風刺漫画においてもっともよく想起された。その漫画数葉を全生庵に蔵していたが、火災の時焼失してしまった。