〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●しかるに、慶応戊辰三月三日、朝廷の征東大総督が駿府まで、押し進められたので、幕府上下の震駭は勿論、江戸百万の市民の騒擾は実に言語道断の体である。そこで居士は

なんとしてもこの危機を救わなければ、この身をいかんせんとて、同五日奮起して慶喜公に謁見して公の恭順の意を確かめ、それより幕府の二三の重臣を訪問し意見を述べたが、いずれも共に語るを得る者はないと見て、さらに勝氏を訪れた。

 

〇黙ってみていれば江戸百万の市民は戦災にかかるのは誰でもわかるのに幕府の重臣はうろたえて具体的な対策を持たないと山岡は見たのでしょう。

 

●これより先、幕府重臣の意見が、朝廷に反抗せんと主張する者と、これには外国を後ろ盾にせんとする者もあった。それと恭順するのと二派に分かれていたので、幕府は抗順いずれかを選ぶべきかにつき、戊辰一月二十三日よりしばしば重臣会議を開いたが、軍議は紛糾して定まる所を知らず。

 

●その最後二月十二日の会議において勝氏が群議を排して大いに恭順を主張して慶喜公もまたそれに賛同された。議論はついに恭順に一決した。

 

〇これは有名な場面です。フランスから軍事使節を受け入れていた幕府は小栗上野介一派のフランスに対する戦費調達と軍事力の援助を目論んでいました。

 

〇「海舟座談」では外資に頼ったところで、一時的に勝利を得ても朝廷は九州辺に移動して戦いが長引くだけのことで、その後に外国が皇土を分割したらどうなるのかと回想しています。

 

〇もちろん慶喜も西周などから列強の植民地拡張を知識として得ています。日本近代化の最大の功労者は徳川慶喜ではないかと思います。

 

●それ以来勝氏はその責任上恭順の趣旨を朝廷へ貫徹すべく、百方手を尽くしたが、一向にらちが明かない。その間に朝廷の征東軍備は着々と進行し、三月十五日をもって江戸城総攻撃の段取りまで極まった。事はいよいよ焦眉の急に迫ってきたので、最早自分が大総督府へ行き哀訴するしかない。

 

●しかし、その身は軍事総裁の職にあるので、一日も幕府を明けることはできない。ことに一方反対論者を抑制していたから、もし幕府を明ければいかなる大変事が突破せんともいえない。そのために勝氏は身体が極まり、むなしく天を仰いて嘆息した。

 

〇反対論者の榎本武揚は幕府艦隊を使い朝廷軍を砲撃しようと企画し、大鳥圭介は幕府歩兵を組織して反抗を企て、近藤勇は新撰組残党を率いて甲府城を突く。勝は七面六臂の働きで何とか鎮静させます。まさに智者。