〇大正8年全生庵発行。 これは昭和38年に復刻されたもので〇す。 大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●公爵徳大寺家は、藤原時平の直系であるので、その昔より代々決して菅公日廟へ参詣せぬという確執を相伝えていた。

居士はある時この由を聞き実則氏に向かい、大政維新の今日であるから、ぜひ菅公と和解せられるべしと勧告され、実則はなるほどと首肯し、早速筑前大宰府の菅公廟へ参詣された。

 

〇徳大寺 1840-1919 内務大臣、侍従長。 西園寺公望の実兄。

 

〇藤原時平 菅原道真の大宰府左遷に関与し、悪左府時平と呼ばれた。

 

●また徳川一門と伯爵柳沢家は五代将軍以来一種の疎隔があったので、これもまた、居士が家達公を説き、特に居士邸において、両家和解の会合を催された。

 

〇柳沢吉保の頃の齟齬と思われる。

 

〇徳川家達 1863-1940 俗に十六代様と呼ばれた徳川宗家当主。

 

〇鉄舟は維新以前の長く続いた因習を立ち切ったわけです。私が読んだ明治本の中に類似するものがあります。有栖川宮熾仁親王の後妻の妃殿下は越後新発田の溝口氏の姫ですが、桃中軒雲右衛門を御前に召して浪曲を聞いたそうです。越後新発田の旧藩士堀部安兵衛の演目を好まれたそうです。

 

〇この妃殿下は、広島浅野家の奥方と親しくなったというのですが、これも忠臣蔵つながりということです。