〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたもので〇す。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●ある時平沼専蔵氏がその長子を喪い、悲嘆号泣しつつ居士を訪い、私は今日より仏門に入って亡児を弔いたく思います。先生何卒御指導を願いますという。居士はウン予もまた長子を亡くしましたから、実に同情に堪えぬ。

 

●しかし、仏門に入ってだだ明け暮れ経陀羅尼を読んでいたとて、何の功徳にもなるものではない。真に亡子の菩提を弔うには、仏道修行をして衆生済度ができるほどの名僧知識にならねばいかぬ。予の察する所ではお前は名僧知識になるべき人間ではない。どこまでも商人にできている器である。

 

●ことにお前は金銭に関係が深いようだから、商人で貫けば長者になるに違いない。しかして、長者になった上で大いに慈善をやるがよい。その功徳は皆亡児に報う。いたずらに頭を剃って経陀羅尼を読んでいるより、はるかに勝る。

 

●されば、婦女子のごとき感情をうっちゃり凛々しく亡児の弔い合戦をする気になって明日より金儲けの方に突進したらどうだといって、懇懇と説諭されたので、平沼氏は飄然として悟り、それより従前に幾倍化の努力を以てついに天下の長者となった。

 

〇鉄舟は相手を見て法を説き、相手の実現可能な方法を示しています。

 

●後年平沼氏はしばしば居士に向かい、私の身代の大半は先生の賜物でありますから、何かご恩返しをしたく思いますという。居士はその都度お礼をいただくより、努めて慈善をしなさいといっておられた。しかるに明治二十一年七月居士の病気危篤に際し、平沼氏は全生庵維持のため谷中真島町一番地の地所を寄付せんことを請うた。

 

●が、居士は篤と考えておくといったままで、薨去された。そこで平沼氏甚だ遺憾に思い。せめてのこととて居士の肖像と賛の碑を全生庵内に建設し、その建碑供養を兼ねて盛大なる追弔法会を営んだそうである。

 

〇平沼専蔵 1836ー1913 武蔵国飯能の人。実業家。貴族院議員。