〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたもので〇す。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●ある時田舎出身の一人の若者が居士に面接を請うた。居士すぐに引見されると、若者はいう、私は越前の国三国港のもので内田宗太郎と申します。私の家は元土地の素封家と称しておりました。が父の代より悲運に傾き今は全く没落してしまいました。

 

●そこで私は不敏ながら官吏になって家を再興せんものと志二か月前に東京へ出てまいり、あなたこなた官途のてずるを探しておりますと、フトある人より山岡鉄舟という人は義侠でよく人の世話をなさると聞きましたから、早速お伺いしましたのでございます。何卒しかるべき官途に御取り立てを願いますと幾度か低頭嘆願に及んだ。

 

●居士は先刻よりつくづく宗太郎の様子を見て、コハ世間の名利を盛る器でないと察しられたが、ウンよろしいと承諾を与え、しばらくして官吏になるには多少の学問経験を要するが、お前はその素養があるかときかれた。イヤ少しもございませんという。

 

●デハ管理にはちょっと難しい。いっそ商人か職人になってはどうか、それなら今日すぐ世話してやらんといわれた。すると宗太郎はハラハラと涙を流し、私は郷里を出る時立派に官吏となって家を再興すべしといってきました。それが今更商人職人になっては郷里に対して面目がございません。

 

●ついては、いかなる艱難もいといませんから、これより官吏の稽古をいたしたいと思いますという。

 

〇田舎出の青年は「末は博士か大臣か」という夢を以て上京してくる。鉄舟は自分に時間があればだれとでもあったようですから、宗太郎と話して学問のないことを見抜いたのでしょう。戦前まで世に知られた人の所に面会に訪れた青年がいくらもありました。青年を育てようという気概が残っていました。