〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●千葉氏は真の禅修行をするには僧侶になって禅堂へ入らねばいかんと考えて、居士にその意を語ると、居士はソハまだ早い、世間のことを十分勤めて後のことだといわれたから、千葉氏は思いとどまったが、その後また思い返して、居士に語ると、居士はやはりまだ早いといわれる。

 

●しかし千葉氏はいかにも思いきれぬので、三度目はなお許されなかったら、脱走すべく決心して請うた。居士その気色を察し、デハ幸いこの頃京都天竜寺の滴水老師が本郷麟祥院へ来ておられるから、予の添書を持参して弟子にしてもらいなさいといわれた。

 

●千葉氏大いに喜び、すぐに添書を持参して滴水老師に相見し、一応その志望を述べると、老師は大喝して医者が坊主になってどうするのだといわれた。しかし、一途に思い込んでいる千葉氏には馬耳東風である。そこで老師は「至道無難の則」を提起して、これを見たかと聞かれる。千葉氏未だ見ませぬという。

 

●すると老師は「驀頭に至道の当体は如何」と問われ、千葉氏はその見解を呈する。老師は次に「無難の端的は如何」と問われ、千葉氏はソハわかりませんという。老師はデハ「無難の端的」を徹底看破し来たれと垂悔された。

 

●千葉氏これを看破すれば、定めし弟子にしてもらえることと思い、勇を鼓して突進し、旬日の後省発するところがあって老師に対した。僧侶になるどころか足の爪先一分も踏み出すことはできませぬという。老師はこれを聞きてうなずきそこが分らぬと皆うろたえまわるのだといわれた。しかして千葉氏はさっそく居士を訪うて前非を悔謝したということだ。

 

 

〇滴水老師1822-1899

〇鉄舟からまだ早いとと止められた禅門に入ることは、滴水老師からも大喝されたように、医師という職をまず全うしなさいという教えのように思います。滴水老師から矢継ぎ早に問いをもらい千葉氏は混乱したようです。

 

〇滴水老師の問いに向かって思考するうちに鉄舟の前言が正しいことに気がついたということかと思います。禅宗の修行に理解がないと読み下すのも難しいです。