〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●この請願における立ち切り試合の妙は、一日午後二三時にある。このころになると立ち切り者は全く心身を打失して至誠一片となり、その活動が真に名人の域に入る。されば、一請願ごとに実際死地を経るのだから、その技術に著大の進歩を見るのは当然である。

 

〇疲れ切って死にそうになると、動きが無駄なく名人の域に近づくというのです。

 

●しかし、第一期、第二期はともかく、第三期は七日間立ち切り千四百面の試合をまったく最後までやり通した者は多数の門人中わずかに二三人にすぎない。全体三日もしくは七日の立ち切り期間は一切外出を禁じ、三食は粥と梅干に限られ、また、試合の相手はなるべく血気盛んな猛者、あるいは飛び入りの新手を選抜するのだから、立ち切り者の悪戦苦闘は実に言語道断で、そのため五体は皆腫れあがり、ことに、おうおう血尿を排出するにいたる。

 

●毎日試合がすむと、立ち切り者は居士の前に挨拶にでることに定まっていた。この時はいかなるものでも完全に両膝を折り、両手を突きえないので、居士はその意気地なきを憤慨し、口を極めて叱責された。

 

〇叱責するので立ち切り者の反発を生み、気を確かにさせたのではないかと想像します。

 

●されど、居士の眼に意気地なしと映る門人たちも、当時の他流の剣客からは獅子王のごとく怖れられていた。ソハ全くこの請願のごとき非常の修養より勝ち得た権威である。

 

〇死地を越えた者でなければ本当の修養にはならないというのです。前出の香川氏は、初めは当時有名な剣客榊原健吉の門に入りましたが、稽古に物足りず、荒稽古で有名な春風館に入り、立ち切り七日間に合格しています。香川氏も血尿を流したと回顧しています。