〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●居士は明治五年六月。岩倉具視、西郷隆盛二氏の切なる推薦により、十年間の約束で宮内省に出仕し、同十五年六月をもって辞職せられたのであると。

 

●居士宮中宿直の時は、下僚および給仕等に休息を許し、独り自ら端座徹夜されるのが常であった。ところがねある夜某官その宿直室へ入り来たって、居士の様を見て山岡君退屈ではないかといった。

 

●居士キッとして退屈とは何事でこざるかといわれたので、某官逃げるがごとく出で去ったということです。

 

〇山岡と同じようなことが明治天皇の死後、重臣が交代で遺体の周りに詰めて通夜をした時の話です。重臣は指定された時間におそばにつくのですが、乃木希典はほとんど毎日参列していました。この時も某官が乃木閣下ご退屈ではありませんかというようなことを言って乃木を激怒させます。ふたりとも明治尽忠の臣といえます。

 

●ある時畏くも明治天皇が居士の忠諫をいれさせられ。相撲と御酒を禁止あそばされたことがあった。その事情は恐れ多いからここに記すわけにはいかぬが、居士一旦お諫め申し上げて後、一か月をを経て、葡萄酒一ダースを献上せられたので、御酒の方は解禁せられたということです。

 

〇この項は前に詳述しました。明治天皇と山岡は直接相撲を取って陛下を投げ飛ばしたと伝えられているのは誤伝で、座り相撲を仕掛けられて、陛下の拳骨をよけ、陛下が軽い傷を負われたことに由来しています。このとき陛下はかなり酔っていました。

 

〇敬神家の山岡は臣下が神であるべき陛下と相撲を取るのは人倫にもとると考えて、体をよけます。周りは陛下にお詫びせよと迫りますが、山岡は頑として応じない。もし、陛下の拳が拙者の顔に当たり、失明でもすれば陛下は酔って家臣にけがを負わせたと非難されますといいます。

 

〇陛下はついには「朕が悪かった」とわびますが、山岡は実効を御示し下さいと言上し陛下は禁酒を実行されます。このころは陛下はかなり酒を飲まれたようで皇后もご心配されていました。

 

〇山岡でなければ陛下に一月の禁酒を実行させるものはいなかったでしょう。