〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。

 

●文久三年四月十三日の夜、清川八郎氏が赤羽橋で殺された時、その凶報が居士のもとへいち早く伝えられると、居士はすぐ義弟石坂周三氏、氏は居士夫人の妹婿。を呼び清川氏が肌身離さず身に着けている同志の連判状と清川氏の首級を取ってこいと命じられた。

 

●そこで、石坂氏は宙を飛んで現場へ馳せつけてみると幸いいまだ検死の役人は出張せず、町役人らが見張りをしているところであったので、念のため町役人に͡コハ何人であるかと聞き町役人が清川八郎なりと答えると石坂氏は突然一刀を引き抜き大音声でヤァ年来探しおりたる不俱戴天の敵清川八郎めと呼ばわりつつ清川氏の首級を落とした。

 

●町役人はあわてて駆け寄ろうとすると、石坂氏は血刀振りかざしハッタと睨んで、我が敵討ちの邪魔をなせば、汝らも敵の一味。皆殺しにしてくれんと身構えたので、町役人らは震えあがって後へと引き下がった。

 

●そのまに素早く清川氏の内懐より連判状を取り出し、脱兎のごとく夜陰にまぎれて走りかえった。そして、連判状を居士に手渡し、その首級を密かに地中に埋めてしまった。

 

●が、もしこの連判状が幕吏の手に入ってしまったら、何かの罪名のもとに、居士を始め同志の者はみな捕縛され、また清川氏も晒首を免れなかったであると。

 

〇このはなしは有名で鉄舟本によく出てきます。これまでのように清川も山岡も幕府には過激な計画を持っていましたから、一つ間違えば命はなかったでしょう。そうすれば江戸開城は違う形になったと思われます。