〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。

 

●居士二十歳のときに山岡静山先生の門に入って槍術を学ばれた。しかるにいまだ、幾月もたたないうちに、静山先生は水練の先生の溺れるのを見て助けようとして隅田川で水死された。

 

〇鉄舟本では、「おぼれている人を見て」とあったように思いますが、この本では「其の水練の師の難に赴き」とあります。

 

●以来居士は静山先生を敬慕するあまり、毎夜課業を終えるとひそかにその墓に参られた。ところが、寺の僧は妖怪が出たと思い、高橋泥舟氏に告げた。泥舟氏は静山氏の実弟で他家に養子に出ておられた。

 

●泥舟氏は正体を見届けてくれようと一夜時間を計り物陰からうかがっていた。するとにわかに天は曇り,電光きらめき、雷鳴地を震わして夕立模様となった。

 

●そのとき一人の者がどこかから駆け寄って静山先生の墓に一礼すると直ちに墓に羽織をかぶせ、自分の身を墓のそばに寄せて「先生ご安心ください。鉄太郎がそばにおります」という。その語気は真に生きている先生に接する如くである。

 

●そこで、泥舟氏は初めて鉄舟居士であることを知り、覚えす感激して涙を流した。これは静山先生、生前は雷鳴が大嫌いで、毎回書斎に飛び込み、布団をかぶってねていたからである。

 

●その後、静山先生の没後、山岡家の相続者がないので親族協議のうえで門人の中から選ぶこととなった。泥舟氏の鑑識で鉄舟を選ばれたのである。

 

〇私が読んだ本では、鉄舟の小野家は父が奉行を勤めるような旗本でも家格の高い家であったが、あえて山岡家を継いだとあります。いかに山岡静山が仁者であったかがわかります。

 

〇鉄舟と泥舟はこれで兄弟となりました。のちに海軍奉行並となる勝海舟との関係ができて、のちに幕末の三舟と称せられます。