〇山岡鉄舟1836-1888

〇旧旗本。剣術家。江戸開城の交渉者として西郷隆盛と交渉する。維新後西郷の懇請で明治15年まで明治天皇侍従となる。座禅をよくし全生庵を創建する。

〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

〇輪王寺宮の側近覚王院気義観との交渉の記録です。彰義隊の上野戦争で登場する人物ですが、詳しく出ている史料は珍しいと思います。

〇原題は「慶応戊辰四月東叡山に屯集する彰義隊及諸隊を解散せしむべき上使として赴き覚王院と議論の記」

〇現代口語文に近い形になおしました。

 

●右を説得すれば左へ走り。左を鎮めれば右に出る。その煩わしさや無礼な行為はいちいち挙げていうことができないくらいである。余は嘆かわしい極みで退散した。

 

●夜明け近く上野仲街に至れば、天台宗の聖地は忽ちにして修羅の悪地となる。余は見るに忍びないので去った。田安門内徳川家に行こうと思い、本郷壱岐坂に至れば、官軍の半小隊が余の馬を囲んだ。これは尾張藩の隊である。

 

●その中に早川太郎という者がいて余の知り合いである。早川が言うに、先生どこへ行かれるのですか。という。余は徳川邸に行こうと思うと。道が混乱しているので行くことはできませんと。お前は官軍ではないか。余のために道を開けて送ってくれないか。

 

●事態は急に進展して応ずることはできませんと答えるのみ。仕方なく余は道を変えて家に帰り、茫然として轟轟たる砲声を聞くだけであった。その時上野の伽藍は灰と消えた。

 

明治十六年三月        山岡鉄太郎 誌

 

〇昭和三年の「戊辰物語」では山岡は勝の指示で彰義隊の鎮圧にあたったとありますが、ここでは本人の筆記なので西郷

参謀からの依頼で動いたというのが自然のように思います。

 

〇輪王寺宮と覚王院義観は総攻撃の後形勢不利とみて三河島方面に落ち延び仙台へと逃れます。輪王寺宮は明治二年京都に蟄居のちに許されて北白川宮能久王となります。覚王院義観はウイキペディアでは明治二年病死とありました。

 

〇口語訳に不自然なところがありましたが、お許しいただきたいと思います。