〇山岡鉄舟1836-1888

〇旧旗本。剣術家。江戸開城の交渉者として西郷隆盛と交渉する。維新後西郷の懇請で明治15年まで明治天皇侍従となる。座禅をよくし全生庵を創建する。

〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

〇輪王寺宮の側近覚王院気義観との交渉の記録です。彰義隊の上野戦争で登場する人物ですが、詳しく出ている史料は珍しいと思います。

〇原題は「慶応戊辰四月東叡山に屯集する彰義隊及諸隊を解散せしむべき上使として赴き覚王院と議論の記」

〇現代口語文に近い形になおしました。

 

●余は後の二万両の件もできないことではない。意見を具申しよう。以上覚王院との議論ようやく結論が出た。意見を具申したが、その時の都合というわけで、彼が請求した金額を与えることは難しく、数日を過ぎると彰義隊の者どもが暴行をするようになり、ところどころで官軍兵を殺傷した。

 

●これは法令によっても許されるものではない。大総督府より鎮圧せよとの命令が数回あった。西郷参謀の内話を受けて収拾に努めたが、彰義隊といい、何隊というも、その行動を見ればあたかも烏合の衆ににている。隊長はあるが、まるでいないようだし、規律を守でなく、兵士は狂人のことく紛々としてまとまらず、であるから理屈をもつて説得することはできなかった。あれやこれやと言い訳をして日を過ごしてしまった。

 

〇山岡は西郷からの内意で説得に動いたと言っています。薩摩も無駄な戦いで藩士を戦死させるわけにはいかないとしたのです。実際薩摩藩は激戦だった黒門口を長州の大村益次郎から割り当てられて多数の死傷者を出しています。この恨みから、大村暗殺の黒幕は薩摩藩といわれます。

 

●余を大総督に召喚し、西郷参謀がいうには、覚王院を召喚したのに来ないのはどういうわけだ。近頃彰義隊の動静を見るに官軍兵を殺傷すること数回。反抗の証拠は歴然である。このようなことから、覚王院は召喚に応じないのだ。

 

●余は彰義隊と諸隊の隊長たるものは皆名ばかりで指揮することはできない。であるから、統制もなく計画あることもない。わたくしの主人徳慶喜のことも顧みず。ただ徳川家に御恩を報ずるといっているにすぎない。凝り固まった愚かな者はついにむなしく東叡山に死体をさらすのみ。

 

〇上野の山に集まる軍勢は、徳川家の御為というのは口実にすぎないと山岡はいいます。